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北の山からこんにちは ?

 来場された団塊世代のみなさま、若いもんの話も真面目に聞いてくださいよ〜。

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色ボケしてないぞ・・・多分・・・晋の献公(在位:前677年-前651年)中国15人目
2014/11/05

 どうも、本当に中々、進まないもので・・・
さて、そろそろ、斉の桓公と知名度を争う、覇者の晋の文公(重耳)に入らねば・・・と意気盛んではありますが・・・ですが・・・!

 その前に、お父上の晋の献公を書きたいと思います。
 何故なら、このお父上が晋の文公が覇者になる上で欠かせない役割を担っているのではないかと個人的に思うからであります。

 更に鬱陶しいとは思いますが、晋の献公の父親・・・
 つまり晋の文公のお爺ちゃんにも少し触れてから、献公に入ります。

 後に春秋時代にて、強大国の「楚」と戦い続ける中原側の強大国「晋」も初めから大国であった訳ではありません。
 むしろ、最初の頃は「あ、いたの?」くらい地味な国でありました。
 位置は、ずっと前に「諸国一覧」を書いてありますのでご参考にして下さい。

 ひどい言われようですが、晋の国は献公の父親の武公の頃は、実は2つ存在していました。

 本家の「晋」と分家の「晋」です。

 武公は「分家」の晋の統治者であり、本家を滅ぼして「晋」を一つにしました。

 つまり、下克上です。

 そこの過程も書きたいとは思いましたが、「かなり血生臭い」事と「複雑怪奇」な所が有りますので、割愛します。

 さてさて、本家を乗っ取った晋の武公の後を継いだのが、今回取り上げます「晋の献公」です。

 このおっさん、横山光輝氏の「史記」を読んでいる方なら「あぁ、美女に騙されて優秀な息子達を迫害して国を混乱させた色ボケ老人ね」と思われるはずですが・・・

 いやいや、実は「そうでもない」のです。

 晋の献公は、名前を姫詭諸(キキショ)と言います。

 武公が存命中の太子時代に武公の側室と関係を持って、「申生」と言う優秀で親孝行な息子をゲットしました。(あれ?早くも・・・?)

 いやいや、即位してからが凄いんです。(違う意味で既に凄い男だが・・・)

 武公が死没して即位した献公には、大きな悩みがございました。

 ひいおじいちゃんの頃から現在にかけて大量に増えすぎた親戚が権力を持ち始めているのです。

 「今度は、こっちが下克上されかねない」と心配した献公・・・頭のいい部下の士爲(シイ)と相談しました。

 士爲「とりあえず、親戚の中で最も力のある富子(フウシ)を取り除けばなんとかなります」と、

 さて士爲は早速、献公の親戚中に「富子」の悪口を拡げ・・・親戚を唆して「富子」の一族を抹殺しました。

 次に、今度は親戚の中でそこそこ力を持っていた2氏を同じ手口で抹殺。

 そして素敵なお城を築いて残った親戚をことごとく「甘い餌」で釣って「素敵なお城」に引越しさせます。

 最後の仕上げは、その「素敵なお城」を包囲し、皆殺しにしました。

 こうして、献公は晋国の唯一無二の統治者としての地位を確立することが出来ました。

 君主権を絶対の物にした献公は、精力的に外征を始めます。

 近隣の小国を次々と滅ぼし、その過程で優秀な部下を見出していきます。(例:畢万⇒子孫は魏氏を名乗り後に魏国を打ち立てます)

 その時期に手に入れた美女が問題の「驪姫(リキ)」であります。

 良く知られているのが、驪姫をゲットした後は色事に溺れて、驪姫の生んだ子供に後を継がせたくなって・・・と言うストーリーですが・・・

 この驪姫をゲットした後で、献公は大仕事をやってのけます。

 西方の大国であるカク(孚に虎)国の攻略です。

 「大国」と聞いて、先ず「お前・・・大国なのにこの国を諸国一覧に取り上げてねぇじゃん!どういう事なの!!」って怒られそうなので先に言い訳させて下さい。
 
 「この国・・・大国なのは判明しているのですが詳細が記録に残ってないんですぅ!!許して下さい!!」

 そういう事です・・・

 さて、その大国カク国のちょくちょく嫌がらせを受けていた晋の献公、「普通のやり方」では攻略出来ない事を実感しているので、一計を案じます。

 「必殺、【あり得ない所から攻め込む】の計」です。

 優秀な外交官の荀息(ジュンソク)を晋国とカク国に隣接している【虞】と言う小国へ派遣して

 「ねぇ、沢山通行税払うから、道貸して、あ!これ挨拶代わりに用意した立派な壁玉とお馬ちゃんです」と交渉した。

 虞国の統治者「いいよん」と快諾した。

 と言う訳で、虞国を通過し、カク国を急襲した。

 当然、「そんな所から」攻撃されるとは予想出来ていなかったカク国は、散々に蹴散らされ一気に首都を奪われてしまい・・・少し期間を置いて結局滅ぼされてしまいました。

 献公の恐ろしい所は、「それだけ」ではなく・・・

 帰りに「道を貸した」虞国も急襲して滅ぼしてしまいました・・・

 そしてプレゼントした壁玉とお馬ちゃんもちゃっかり摂取して一言・・・

 「やぁ、別れた時にはとても立派だったのに、久しぶりに会ったら、すっかり老いてしまったなぁ・・・」

 なにはともあれ、献公は近隣諸国を滅ぼし、晋国を一大強国に仕立て上げました。

 ※因みに、前回に楚を「隙ありで近隣を滅ぼすならずもの国家」みたいな事を書きましたが、晋国も見事な「ならず者国家政策」で強大化を果たしました。
 しかも、滅ぼした国が「先祖が一緒の同族の国」ですので更に性質が悪い・・・

 まぁ・・・親戚を皆殺しにする様な男ですから・・・同族国家を滅ぼすのなんて対して良心が傷まないのでしょうね・・・

 さて、後継者問題に関しては、横山光輝氏の書いてある通り・・・

 愛妻の驪姫が生んだ子供の「奚斉(ケイセイ)」に後を継がせたい献公、邪魔になった優秀な他の子供達を持ち前の「えげつなさ」で処分していこうとする。

 被害にあった息子たちは以下の通り

 申生:謀反の疑いを掛けられ自殺まで追い詰められてしまう。

 重耳:申生と結託していたと容疑を掛けられてしまい亡命する事になる。(19年の流浪の末に即位し晋の文公として覇者となる)

 夷吾:重耳同様の理由で居城に攻め込まれる、交戦するが勝てず亡命。秦国の援助を得て献公の死後、即位し恵公となる。

 上記の様に、邪魔者を晋国から処分・追いやった献公は、これで心置きなく可愛い「奚斉」ちゃんを太子に定めたが、彼がまだ小さい事を心配し、先に活躍した荀息に「奚斉」ちゃんを託し、この世を去った。

 献公の死後、里克(リコク)と言う部下は、先に自殺させられた申生、追い出された重耳・夷吾の一派と語り合って武装蜂起し、献公の喪に服していた奚斉とその弟の悼子(トウシ)を惨殺し、秦国の援助を受けていた夷吾を呼び寄せ即位させました。

 荀息は、「奚斉と悼子を守れなかった」事を悔やみ自殺した・・・

 〜私なりに献公を考える〜

 個人的な実感として、献公と言う方は一人の人間としては、「お付き合いしたくない」類の人間に思えてしまいます。
 とにかく、「恐い」人間だと思いますので・・・
・平気で親父の側室を寝取る。
・平気で親族を族滅する。
・平気で当時の常識(祖先を同じくする国は攻撃しない)を裏切る。
・そして平気で自分の子供を迫害し自殺に追い込む。

・・・とんでもないオッサンです。

 ただ、「一国の指導者」としてはどうなのでしょう?

 私は大いに立派だと思います。

 「親族殺し」も指導者としてなら、大事な仕事です。
 主君を脅かす親戚ほど性質の悪いものはないですから・・・
 ただ、問題点は「力を持った親族」がいない事で「力を持った臣下」を抑える事には苦労する事になります。
 実際に、後の晋国は「有力な親族」が居ない為に「有力な臣下」に良いようにされる様になってしまいます。
 
 どちらにしろ「親族」か「臣下」どちらかには権力を削り取られていくのは「国」の定めですから仕方ないと言えばそれまでです。

 そんな「親族」の害に敏感だったからこそ、後継者と決めた「奚斉」以外の息子達は「驪姫が唆さなくても」

 「処分する対象」

 ・・・だったのではないかと思われてなりません。

 長々と書きましたが詰まる所、献公が目指した者の一つに「絶対君主制」があったのではと思うわけです。
 
 そして、献公が「カク国」など周辺諸国を滅ぼし続けた結果、晋国が「中原で覇を唱え得る軍事力」を得ている事は、忘れてはいけないと思います。

 後に「覇者」となる重耳は、献公が悪名を残しながらも、強大な軍事力を築き上げていたからこそ、
 
 「覇者」になれたと、僕は思います。

 結論:献公は、冷酷で人間性を疑うような人物でおっかないが、それだからこそ「晋国の強大化」を成し遂げた立派な指導者とも言えるんじゃないか?と言う疑問を僕は投げてみたい。

 むしろ、本当はどうかはしらないが「あえて冷酷な為政者」を演じていたのかも・・・と思う事も多々あります。

 少し残念だと思うのは、「いじめられても殺されそうになっても、親を思いやって自殺した」申生すらも信じられない酷薄さが、結局の所、「可愛い奚斉」と「優秀で義理堅い荀息」を殺してしまった。と言う事です。

 申生を生かして、奚斉を補佐させたなら、どうなったかなぁ・・・?

 僕は案外上手く行くんじゃないかと思ったりするが・・・

 献公がきっと恐れた様に「申生が奚斉を殺して即位する」という事態が発生するかもしれません。

 まぁ、歴史に「もし・・・」は有りませんから・・・(笑)

 でも、勝手に妄想するのは後の人間の特権でもありますので、私は遠慮なく「妄想」を続けます。


 今年中には「重耳」まで・・・いけないだろうなぁ・・・

覇者と戦い続けた「王様」 楚の成王(在位:前672-前626年)中国14人目
2014/09/25

 どうもです・・・2ケ月休んでしまいました・・・
駄目ですね・・・さて、また懲りずに「しょうもない」書き物を続けます(笑)

 今回は、初めて超大国の楚の人物を取り上げる事となります。
 楚と言えば・・・覇王で有名な項羽を生み出したお国であります。(この人格好いいんだ、マジで!)

 時代は、ずー・・・と・・・後になりますが・・・

 兎に角、「楚」ちゅう国は、中国南方の現在の荊州の辺りを中心に春秋時代から急激に大国化した国で、言葉や文化も、中華と呼ばれた中国の北部とは色合いが違います。
 故に、「蛮族」とか言われて可哀想な所もあります。

 後に「楚の人間はサルが冠を被ったようだ」と覇王の項羽に言って釜茹でになったオッサンがいたくらいです・・・( ;∀;)

 さて、楚の大国化は、今回取り上げる成王のお爺ちゃんの武王とお父さんの文王から始まります。(正確にはもうちょっと前かもしれませんが・・・色々面倒臭くなるので端折ります)

 とりあえず、成王の話になる前に、上記の両名の事跡も超簡略に書きます。

【楚の武王】
 1.大国であった随(ズイ)国を散々に叩きのめし、中国南方の覇権を確立。
 2.周王朝に「爵位上げてくれ」と頼んだところ、断られたので、ムカついて独立宣言し「王」を自称する。
 3.随に止めを刺そうと出陣したが、戦陣で病死した。
 
【楚の文王】
 1.近隣諸国を滅ぼす。(母親の出身国も滅ぼした)
   ※周の幽王を殺した申候の国も滅ぼした。
 2.鄭も攻撃し、華北へも侵攻する様になる。
 3.巴国(四川省辺り)を攻めるが敗北、城に戻ろうとするが、部下が門を閉じて入れない。仕方ないので、近くの黄と言う国を攻撃し勝利を収めた後、戦陣で病没した。

 お爺ちゃんとお父さんは、そんな感じです。

 少々、文王の3の様に、「は?」と思う点もございますが、
 総じて言える事は、この2代で楚国は、近隣の諸侯を滅ぼしまくり国土を強大化させる事に成功した。と言う事です。

 当時の常識で言えば、他国を滅ぼすという行為を行う場合「相当の理由」が無いと、諸侯から批難され村八分を受けるので、中々出来ない事ですが、

 楚国の場合「ん、隙有り!」で滅ぼしてしまう辺り・・・やっぱり文化違うんかなぁ・・・と感じます。

 まぁ・・・実は、楚国以外にも「そういう事する国」が出てきますが・・・それは後ほど・・・

 さて、偉大な(?)祖父・父親を持つ、成王に入りたいと思います。

 成王は、史記に拠れば、名前を「熊ウン(りっしんべんに軍)」と言います。「熊は、ユウと読みます」(名字が熊なんて・・・なんて強そうな・・・!)
 
 さて父親の文王が、少々奇怪な死を遂げた後、楚の国は、成王の兄である熊荘敖(ユウソウゴウ)が即位した。
 で、兄貴の荘敖は、彼を疎ましく思った様で、殺害しようと企んだそうな。

 事前に、やばそうな雰囲気を察した彼は、隣国の随国(お爺ちゃんが散々いたぶった国、この時は恐らく属国化していたのだろう・・・)へ亡命し、随国の支援を得て、兄貴を殺害し、即位した。

 その後、叔父さんの子元(シゲン)が、国政を好き勝手に動かし、あろうことか成王の母親にまで手を出そうとした。これは部下の闘班(トウハン)が始末しました。

 ここにおいて、やっと成王は楚国の王として名実共に君臨しました。中々、血生臭いですね・・・仕方ないネ。

 史記に因ると成王は、「人民に恩恵を施し、諸侯との旧交を固め、周王朝へ献上品を贈った。」そうな、

 今までの楚国の方針を大きく変えております。

 1.隙あれば諸侯を侵略→諸侯と交流を持つ
 2.周王朝と絶縁→周王朝を敬う姿勢を見せる

 結果どうなったか?

 史記に因れば、面白い事に周王朝から
 「汝の南方の国々が蛮族や越族から悩まされるのを鎮め中華を侵させぬ様にせよ」
 とお言葉を頂いたそうな。
 
 つまり、南方の地域を楚国が代表して治める「大義名分」を得る事が出来たのです。

 凄い事ですねぇ・・・

 ただし、参考資料を「春秋左氏伝」に切り替えてみると面白い事実も浮かびあがります。

 「子元が死んだ後、令尹(宰相)となった闘穀於菟(トウコクオト)は、家財を放出し、楚の危難緩和に当たった」

 と言うお話があります。
 
 妄想になりますが、諸侯や周王朝への講和の為にばら撒いた金銀財宝の類は、半端では無かったと思うのです。(単に前任者の子元が贅沢なお遊びをし過ぎただけかもしれませんが・・・)

 そして、この諸侯・周王朝と講和する方針を打ち出したのは、成王ではなく闘穀於菟ではないかとも思うのです。
 所詮、妄想ですがそんなに外れてないと思います・・・
 ※因みに闘穀於菟は、字の「子文」と呼ばれる事が多いです。それはもうとても優秀な令尹だったそうです。

 少々、道がそれましたが、即位して間もなく、「南方を治める大義名分」をゲットすると言う、成果を収めた成王、暫くして南方に憂いが無くなったのでしょうか、
北進を始める様になります。

 ターゲットとなったのは、「鄭」であります。

 ずいぶん前にも、書きましたが鄭国は、中華における交通の要所に位置しております。

 楚の立場としても、仮に鄭国を抑えれば、当時の覇者である斉国と周王朝の本拠地である洛邑を分断する事も可能となります。
 
 「当時の中華を2つに分断出来る」と言えば大げさかもしれませんが、ちょっと言ってみたりします。

 交通の要所となれば、経済的な面でも美味しいですしね。

 ただし、覇者である斉国の桓公も、そんな事は百も承知ですので、「そうはさせじ」と諸侯と連合して、鄭国を救おうとする。

 斉国は、楚の従属国を寝返らせて牽制したり、楚国は、鄭国に攻撃を加え従属させようとしたり、まぁ色々やりあいます。

 結果は、斉の桓公の時にも書きましたが、「蔡の姫君、実家に帰る事件」を巧みに利用した斉の桓公が優勢となり、楚と斉率いる諸侯連合は、講和し、楚国の北進は封じ込められる事となりました。

 斉により北進の夢を挫かれた成王は、今度は「斉から離れた諸侯」を攻撃し地味に着々と力を蓄えます。

 そして、斉の桓公がお亡くなりになり、斉で後継者を巡って内乱が発生、宋の襄公がこれを収め、後継者争いで負けた桓公の息子共7名ほどが亡命してきたので、保護し手駒として大事にする。

 さて「恐い斉の桓公もくたばった」ので、悲願の北進を再始動する楚の成王。

 今度は、次世代の「覇者」を目指す宋の襄公と対立する事になります。

 宋の襄公の所でも書きましたが、今度は成王に分がありました。

 会合の席で宋の襄公を捕獲し辱め、諸侯を恫喝し、鄭国を始め「覇者」という拠り所を喪った中小国の諸侯を傘下にくみこんだ。

 ダメ押しで「泓水の戦い」で宋の襄公を完膚無きまで叩きのめし、宋国も属国化させた。

 正に大戦果であります。楚と国境が近い諸侯は、殆ど支配下に入ったと言っても過言ではないでしょう。

 事実、この時期他の大国を見ると以下の通り

 斉→内乱により国土荒廃、立て直し中。
   しかも、後継者候補を楚国で匿っているので、また内乱の火種を巻きやすい。

 晋→恵公が秦と韓原の戦いで敗北した。
 
 秦→晋との会戦には勝ったが際どい勝利だった。

 つまり、楚国を脅かす存在はいない国際情勢なのです。

 これはかなり美味しいです、成王にとって絶頂期であった事でしょう。
 
相当嬉しかったのかは知りませんが、例の泓水の戦いが終わった直後に、傘下に入っていた鄭国に立ち寄り、
おもてなしをした鄭公の婦人に「切り取った宋兵の左耳」を見せびらかして遊んだり、「鄭国の美女」2人を両脇に抱えて楚国へ連れ帰ったそうな。

鄭国のとある知恵者は、成王の得意げな姿を見て・・・
「ありゃぁ、ろくな死に方せんわ・・・」と呟いたそうである。

 さて、そんな絶頂真っ盛りな成王に晋から亡命し諸国を流浪していた重耳っちゅう「やんごとなきお爺ちゃん」が立ち寄った。

 宋の襄公に続いて成王も、この年老いた貴公子を「大した人物である」と見抜き彼を盛大におもてなししました。

 重耳は暫く楚国に滞在したのち、隣国の秦国へ旅立ち、秦国の援助を得て、晋の君主に即位しました。

 この重耳は、晋の文公と呼ばれ「覇者」への道を歩み、楚の成王と対峙する事になります。

 晋の文公が即位して暫く後、楚の従属国となっていた宋国が晋の援助を期待して、楚から離反した。

 楚の成王は、当然宋国の討伐を始め、
晋の文公は「宋の襄公に厚遇された恩」と覇者と認められる為にも「なんとしても宋国を助けなければならない」と出陣し、中原の覇権を掛けて、晋と楚の戦いが始まります。

 先ず楚の成王は、宋国を攻撃。

 それに応じて晋の文公は、楚の同盟国の衛国・曹国を攻撃し降伏させる。

 更に、斉国・秦国に依頼し2国から楚へ「宋国の包囲を解いてくれ」と頼み込む。
 楚、これを断り、秦国・斉国は面目を失い楚国を恨み晋国を応援する様になる。(晋の文公はこれを狙った)

 早くも、楚は不利な状況に追い込まれていきます。

 成王は臣を集めて話した。

 成王「晋の文公は、19年も流浪しただけあって、民心の表裏を知り尽くしているなぁ、しかも天は彼を長生きさせて晋国の君主に即位させた。天が置いた者には勝てないだろうな、撤退しよう」

 しかし、令尹の成得臣(セイトクシン)は、反対して断固決戦を主張した。

 ※話の腰を折りますが、この時期、令尹は闘穀於菟から彼に替わっておりました、彼は字を「子玉」と言います。特徴としては割とタカ派なタイプです。

 成得臣(子玉)が断固譲らないので、成王もぶち切れ「じゃぁ、勝手にしろ!!」と言わんばかりに、彼にわずかな軍を預け帰国してしまった。

 取り残された成得臣は、残された軍を率いて勇敢(?)に晋・斉・秦の連合軍と決戦に及んだ。

 この決戦を「城濮の戦い」と言います。

 当然ですが、多勢に無勢・・・成得臣の率いる楚軍は敗北しました。

 「成得臣、バカやなぁ・・・」と言われそうなもんですが、彼の為に弁護するなら、成得臣の率いた部隊は、負けておりません、むしろ押していたとも言えます。
 彼の両側の2軍が、あまりにもあっさり敗北し潰走した為に、成得臣も退却する羽目になった合戦でした。
 
 案外、楚軍全軍で決戦に及んでいたなら・・・と思わせる働きを彼はしておりました。

 まぁ、何はともあれ決戦に敗北した結果、

 1.楚国は宋を陥落させる事が出来ず、
 2.曹・衛の2国を失い、
 3.おまけに戦況を見ていた鄭に離反されてしまった。
 4.極めつけに、晋の文公は、この戦いにより「覇者」として諸侯に認められる事になります。

 この敗北は、楚国にとって大きな損失をもたらしました。

 成得臣は、成王に「死んだ兵隊の家族になんと言ったらいい!」と怒られ、自殺して責任を取りました・・・

 ※因みに、晋の文公は成得臣を警戒していた様で、
  城濮の戦いに勝っても喜ばず、後に成得臣が自殺したと聞いてやっと喜んだそうです。
  そう考えると、彼の自殺も楚国にとって大きな損失だったのでしょう。
  戦犯は辛いぜ・・・( ;∀;)

 とは言っても、楚国は「覇者」によって中原進出を抑えられる事にはなりましたが、超大国であることには変わりはありません。
 また、じっくり力を蓄え期を伺えばいいだけの事で、相変わらず楚国は、中原の諸侯にとって脅威でありつづけました。

 しかし、成王の本当の敵は足元にいました。

 成王には「商臣」と言う息子がおりました。

 見どころがあったのでしょう、彼を後継者にしようとしました。

 ところが臣下の子上と言う方が「商臣様は、蜂の様な目をしており、声は狼の様で、正確は残忍です。彼を後継者にするのは危険です。」と反対した。

 少々、「商臣、化け物じゃねぇか・・・」と突っ込み所満載ですが、成王は結局彼を後継者に選びました。

 ※後に、商臣を後継者に反対した子上は、彼によって讒言され成王の手で殺されました・・・

 そして幾年か経ち、成王は商臣を後継者にしたことを後悔し始め、「職」と言う息子を後継者に替えたいと考え始めた。

 その噂を嗅ぎ付けた商臣は、師匠の潘崇(ハンスウ)に相談した。

 潘崇「ならば、成王様の妹君(側室の一人の説もあり)を宴に呼んでわざと無礼を働いてみなさい、真実が解るでしょう」と・・・

 早速、商臣は師匠の言う通りにした所・・・

 成王の妹「王様が貴方を廃して、職を跡継ぎにしようとするのも、もっともなことだよ!!」と言われた。

 噂が本当だと確信した商臣、落ち込んで師匠へ改めて相談した。

 潘崇師匠曰く

 潘崇「そなたはアレ(職)に臣下として従う事が出来ますか?」

 商臣「出来ない・・・(:_;)」

 潘崇「ならば、他国へ亡命する事は出来ますか?」

 商臣「出来ない・・・(/_;)」

 潘崇「それなら・・・王を殺せますか!?」

 商臣「・・・出来る!!(`・ω・´)キリッ」


 決心した商臣は直ちに反乱を起こし成王を捕獲した。(恐らく、職や成王の妹などは瞬殺されただろう)

 捕獲された成王・・・商臣に自殺を強要され、一言・・・

 成王「最後に熊の掌の料理が食べたい・・・」と

 だが、その願いは叶わなかった・・・


〜私なりに楚の成王を考える〜
 どうもこのお方、史記などを読むと、仇役としてやたらと登場する割に、取り扱う資料が少ないなぁ・・・と少し可哀想になります。
 と、言う訳で調べたのが始まりですが、調べれば調べるほど、凄い王様だった事が判りました。(ゴメンネ成王様・・・)
 先ず、中原諸侯と深い交わりを持ち、時に威圧し従属化させる「飴とムチ」により、楚国(蛮族)と中原諸侯(尊い人種)と言う垣根を見事にぶち壊した事が素晴らしいと思います。
 これにより、相変わらず「楚国はサルだ」など言われはするが、中華の一つとして認識される様にまではなったのではないかと思います。

 次に、時の覇者「斉の桓公」「晋の文公」と渡り合い続けた事も褒められる事では無いでしょうか?
 「宋の襄公」も覇者として数えるのなら、こちらの覇者には大勝しましたし・・・

 まぁ・・・それは成王というより令尹の闘穀於菟が主導していたからではないか?と言う疑念は少々ございますが・・・
 その根拠としては、闘穀於菟が引退して成得臣が令尹に就任してから、楚国は城濮の戦いに敗れ、折角進出した中原から南方に押し戻されてしまっているからです。

 まぁ、有能な臣下を使い力を発揮させた。それはそれで凄い事だから、成王の力ととっても良いかと思います。

 ただ、どうも後半は宜しくなかったですね・・・

 一度立てた後継者をまた変更したがるのは、乱の元。
 やるなら、相手が手を出せない状態にしてから「あ、後継者替えるから宜しく」としなければ・・・
 お兄さん殺して即位しているのだから、その位判りそうなものですが・・・在位が長いし(凡そ40年現役)、ちょっとボケが始まっちゃってたか・・・?

 それは、言い過ぎですね、申し訳ありません・・・

 最期に食べたがった「熊掌」これ作るのって凄く時間がかかるらしいです。
 どうやら、それで時間稼ぎをして「誰かが助けに来てくれる」のを待つつもりだったのでは?と言うお話も読みました。
 多分、そうだろうと私も思います。(これだけしたたかなら、ボケは無いでしょう)

 商臣もそれが判ったから、許さなかったのでしょう。
 
 支離滅裂で見苦しい文章となってしまいましたが、とにかく私が言いたい事は、

 楚の成王は、中原諸侯にとって「名敵役」であった。
 もっと評価されるべき偉大な王様じゃないか?

 ・・・と言う事です。

 次いでですが、成王を殺して即位した商臣は、「楚の穆王」と呼ばれます。
 その持前の「気性の激しさ(残忍さ)」を大いに発揮し、諸侯を攻撃し、諸侯に恐怖を植え付け、同時に大いに恨まれました。

 その穆王の息子が、楚の全盛期を築き上げる「荘王」でございます。

 早く・・・彼までたどり着きたいものです。

強くなりたい!覇者になりたい!!宋の襄公(在位:前651年-前637年)中国13人目
2014/07/22

 以前にも記述したかと思われますが、私が取り扱っております春秋時代には「春秋五覇」と呼ばれる単語がございます。
 「春秋時代を代表する5人の覇者」と言う意味ですが、挙げる人によって、メンバーは変わって来ます。
 とりあえず、ノミネートされています人物を並べますと以下の通りになります。
 
 1.斉の桓公
 2.晋の文公
 3.宋の襄公
 4.楚の荘王
 5.秦の穆公
 6.呉王夫差
 7.越王句践

 と、こんなところでしょうか?
 
 しかし、「覇者の条件」ってどんなだろうか?とちょっと思いましたので、思いつく限り列挙してみます。

 1.諸侯を集め国際会議を取り仕切る実力と声望を持っている。
 2.諸侯の代表として、諸侯の紛争等を解決し秩序をもたらす。
 3.あくまでも、周王朝の代理で諸侯を率いている事を忘れず、周王朝を敬う姿勢を現す。
 4.周王朝に「代行者」として認められる。

 少なくとも上記の4点の内、1と2は備えないと「覇者」とは言えないでしょう。(3.4は、あくまで諸侯に尊敬される為に必要な行動・資格なので、)

 手っ取り早く言えば、「諸侯に言う事を聞かせられる強大な軍事力と経済力」を備える事が第一条件なのでしょう。

 因みに私は以前に斉の桓公を結構こき下ろしましたが、彼は1〜4全てをコンプリートしています。

 文句無しの「覇者」でございます。

 さて、今回取り上げる宋の襄公は、「覇者」としてノミネートはされているお方ですが、果たして「覇者」と呼ばれるに相応しい人物だったのでしょうか?

 宋の襄公は、名前を「茲父(ジホ)」と言います。
 
 父親は、宋の桓公。
 以前書きました「南宮万の乱」の後にその人気の高さから、宋の国民に推戴され即位したお方です。

 時が経ち死の床に就いた宋の桓公は、息子の茲父を呼んで後を継ぐ様に命じた所・・・

 茲父「兄上(庶兄)は仁に篤い方ですので、兄上に国を託すのが良いと思います。」と答えた。

 そこで桓公は茲父の兄の目夷(モクイ)を呼んで茲父の言葉を伝えた所。

 目夷「国を他人に譲れる者こそ後継者に相応しいです。茲父に継がせなされ」と固く固辞した。

 桓公は「それもそうだ」と当初の目論見通り茲父に後を託して死去した。

 茲父は即位し、兄の目夷を宰相に任じ、政務を見させた。(これより茲父を襄公と表記します。)


 場所は変わり、当時「覇者」であった斉の桓公は、後継者を公子昭に決めたが、誰に後見を頼もうか悩んでいました。

 そこで、件の管仲に相談した所「宋の襄公は義に篤い人物です。彼に後見を依頼するべきです。」と強く言ったので、斉の桓公は、襄公に公子昭の後見を頼んだ。

 果たして、管仲が死去し、斉の桓公も死去すると、斉国では後継者争いが始まり、政争に敗れた公子昭は、襄公を頼り、宋国に亡命してきた。

 襄公は、桓公との約束を守る為に、諸侯に働きかけ連合軍を率いて斉国に入り、公子昭を復位させる事に成功した。(公子昭は、斉の孝公と呼ばれる)

 ここまでは正に「宋の襄公は素晴らしい人だ」だったのでしょうが・・・

 どうやら、このあたりから襄公は自身過剰になったのか「覇者になりたい」と思うようになった様で、

 宋国の主催で会合(国際会議)を開こうと計画した。

 しかし、宋国は国力はお世辞にも高いとは言えず、良く言って中の上に行くかどうかで、

 お隣には、強大な斉国と楚国が控えている。

 そこで、襄公は「俺、会合開くけど来てくれるかな?」と両国に打診をする。

 斉国は、襄公に恩義がある事と、内乱によって国力が疲弊している事情から、了承した。
 
 しかし楚国は、「なんだあいつ、我が国より国力が低いくせに我が国の上に立とうとするのか・・・懲らしめてやる」と思い、悪巧みを始めた。

 先ずは「うん、いいよ」と承知した。

 両国に認められたと認識した襄公、「これで晴れて覇者になれる」と思い、会合の準備を進めたが、
 
 兄の目夷が「小国が覇者の地位を得ようとするのは災いの元です、諦めなさい」と反対した。

 しかし既に覇者になれるとばかり思っている襄公は兄の言う事を無視して会合を主催した。

 そうしたら・・・楚国の代表が、楚王ではなく将軍であり、しかもその将軍が、会合の席で襄公を拉致監禁し、襄公を人質にし、宋国で狼藉を働いてしまった。

 結局、他の諸侯のとりなしで襄公は解放されたが、みじめその物で、覇者どころか、近隣にもバカにされるようになってしまった。

 さて楚国に耐えがたい屈辱を与えられた襄公は、汚名を返上しようと、先ず楚国の属国になっていた鄭国へ侵攻した。

 鄭の荘公の頃と比べると悲しいほどの凋落ぶり・・・

 さて、楚国は当然、鄭国へ援軍を出す。

 実はこれこそ襄公の狙い通りだっかと・・・

 さて襄公は「待ってました!」と言わんばかりに、軍隊を楚軍へ向け、両国は泓水(オウスイ)と言う河を挟んで睨みあった。

 兵力は楚軍の方が圧倒的に多いが、なんと襄公にとってラッキーな事に、楚軍は宋軍の前で渡河を始めた。

 これを見た目夷(春秋左氏伝だと司馬と言う役職の人)は、
 「敵は多数ですが、今なら勝負になります!攻撃を!!」と襄公に攻撃を催促した。

 しかし襄公は「ダメだ!」と攻撃をしようとしない。

 そして楚軍が渡河を終えて陣形を整え始めたのを見て目夷は、
 「敵は、まだ陣形を整えておりません!!攻撃を!!」と改めて攻撃を催促した。

 が、襄公は「ダメだ!!」と攻撃しようとしない。

 そして楚軍の陣形が整ったのを眺めて、襄公は

 「よし、もういいだろう、攻撃しろ」

 と言って突撃を掛けさせた。

 結果は、当然ですが宋軍の惨敗。
 襄公の近衛兵は全滅し、襄公も太ももに矢を受ける始末・・・近衛兵が全滅するほどなのですから、殆ど帰還出来た兵隊はいなかったのだろうと言う事は容易に想像出来ます。

 この決戦で、敗北した宋国は、楚国と屈辱的な和睦を結ばされ実質上、鄭国同様「属国化」された。

 宋の国民は、襄公を大いに恨み、「何故2度も勝てたかもしれない好機をわざと逃したのか?」と詰め寄った。

 それに対しての襄公の答え↓
 「私は、相手の弱みにつけ込む様な卑怯な事はしないのだ!」
 
 ・・・との事・・・

 目夷は呆れて「戦争は勝ことが最も大事だと言うのに何を普段の時の様な事を・・・どうしてもそうすると言うのなら初めから戦争なんかするべきじゃない」と嘆いた。

この一戦の故事より「宋襄の仁」と言う故事成語が出来ました。
 意味は「無用の情け」「身の程知らずの情け」なんだそうです・・・

 泓水の敗北に沈んだ宋国に一人の貴公子が亡命してくる。
 内乱によって晋国から逃げて来た公子の重耳です。

 襄公は、この重耳を大いに見込んで、怪我を押して大歓迎し、軍馬を80頭プレゼントしました。

 そして同年、襄公は太ももの矢傷が悪化してお亡くなりになりました。

 襄公に歓待された重耳は、後に晋国に戻り無事に即位して晋の文公として呼ばれる様になりました。

 襄公の後を継いだ子供の成公は、楚国との条約を破棄し晋国に助けを求めます。
 
 晋の文公は以前に襄公に歓待された恩を忘れておらず、軍を出して宋国を討伐しに来た楚軍を撃破し宋国を救いました。

 〜私なりに襄公を考える〜
 
 このお方は斉の桓公の次に「覇者」になることを目標としてきた様ですが、それに関しては見通しが甘すぎると思います。
 確かに宋国は、爵位は唯一最上の「公」を持ち、国力も中位はあったので、夢を見る資格はあったでしょう。
 ただ、斉の桓公は、先ず「国力を高めてから」覇者への道を進みました。
 襄公は、折角、現実的な目を持つ兄の目夷がいながら内政を高める事を怠り、すぐに覇者への道を歩みました。
 それでも、泓水で目夷の言う通りに戦い勝利する事が出来たのなら、「覇者」になれた可能性はありました。
 しかし泓水での一戦がどれだけ「負けられない戦い」で有る事かを感じていなかった様にしか思えません。
 
 辛口ですが、本末転倒な上に見通しは甘ったれかと思われてなりません。
 
 おかげでどれだけ国民を無意味に死なせたか・・・と残念でなりません。

 「誰だ?宋の襄公を覇者の一人に数えた人は!覇者どころか、ただの理想主義者じゃねぇか!」

 ・・・と、以上が必要以上に辛口で感じた事です。
 
 ですが、好意的にみるなら、当時人として大事にされてきた「礼」や「義」を小国は仕方なくとも大国ですら無視し始めてきた世情で、決して大国ではない宋国の指導者が率先して模範を示そうとしたと考えれば、これは賞賛しない訳にはいきません。

 周りに流されず自身の正しいと思う事を貫き通す事はとても勇気がいる事だと思うからです。

 泓水での矢傷で死ぬ事が無ければ、挫折を糧に励み、もしかしたら本当に「覇者」になれたかもしれない。

 ちょっとそう思わせる地味に魅力ある人物な気が個人的にはします。

 余談ですが、襄公の死後の宋国は晋・楚に挟まれながらも「中々、簡単に寝返らない節義のある国」として、
面倒臭がれながらも、両国にある意味で一目置かれ信頼される国になります。

 そこに、もしかしたら襄公の遺風が残っているのかもしれません。

 なんちゃって一笑一笑
 

愛し方を間違えた・・・衛の懿公(在位前669-前660)中国12人目
2014/07/14

 突然の前ふりになりますが、ずっと前に私が取り上げました衛国の州吁さんを覚えていらっしゃる方はいますでしょうか?
 その州吁さんがぶっ殺された後に、即位した衛の成公は、残念な方だったと記述した覚えがありますが、今回取り上げる衛の懿公(イコウ)は、成公のお孫さんであります。
 名前は、赤(セキ)です。
 このお方を語る前に簡単にお爺ちゃんの成公の事も少し触れないといかんので、少し我慢頂ければと思います。
 州吁の死後、衛公となった成公ですが、このおっさん、後継ぎの予定にしている息子(名前は汲(キュウ))にお嫁さんをとらせようとしました。
 ※後継者として指名している子供を「太子」と呼ぶ。
  ので、これからは彼を太子汲と記述します。

 で、話はとんとん拍子で進み、いざお嫁さんが、衛国に入国し成公にご挨拶した所・・・

 成公、超絶美女な息子の嫁に惚れてしまったのです・・・
 「こりゃ、俺の嫁にするしかねぇ」と成公は、息子からお嫁さんを奪って、自身の嫁にして、二人ほど子供を産ませた。(名前はそれぞれ寿、朔)

 さて、当然惚れた女の産んだ子供に後を継がせたくなった成公、先の息子がウザったくなってきた。

 「そうだ、邪魔ならいっそ殺しちゃおう」

 と言う親としてあり得ない決断をした成公・・・自分では殺すのは世間体が悪いので、盗賊に金品を送って「暗殺」を依頼した。

 件の嫁から生まれた子供の一人の寿は、それを知り腹違いでありながらも、太子汲に事の次第を話して亡命するように勧めたが、太子汲は「父上が私を殺したいと望むなら死ぬのみである」と取り合わない。

 業を煮やした寿は、太子汲と酒を飲み彼を眠らせた後、太子の格好をして、盗賊の出没する所へ出向き、「太子汲の身代わり」となって殺された。

 それを知った太子汲は、寿の殺された場所へ出向き「本当は殺されるはずだったのは私だ」と盗賊に怒鳴りつけ、彼もまた殺された。

 といった何とも後味の悪い事件を経て、件の美女から生まれたもう一人の息子の「朔」が後継者として衛国の君主となり恵公と呼ばれた。

 恵公は、太子汲や寿を憐れみ反抗的な態度をとった臣民を容赦なく粛清したので、衛の臣民は恵公を大いに恨んだ。

 恵公の死後、今回取り上げる「赤」が即位した。
 懿公の誕生であります。

 さて、この懿公、特にどんな政治を行ったとか、どこと戦争をしたとか、そういった記述は殆ど無いに等しいが、とある事で、春秋時代において「超有名人」になります。

 快楽にふけり、贅沢な暮らしをし、そして・・・

 ひたすら鶴を愛した

 その愛情たるや凄い物で、鶴に官位を与えたり、高官が乗るような馬車に鶴をのせて巡行したり・・・と明らかに鶴への愛がエスカレートしまくりです。
 
 (日本にも犬公方おったなぁ・・・)

 そんな鶴とイチャつく毎日を過ごした懿公に、災厄が訪れます。

 狄(テキ)と呼ばれる異民族が、衛国に侵攻したのである。

 さぁ、これは一大事と懿公は軍を招集するが、集まりが悪い・・・それどころか懿公を放って逃げ出す奴等も目につく。

 当然、懿公は「お前ら!どこへ逃げるのだ!!戦え!」と叱咤したのだろうか、鎧をつけようともしない臣下に鎧を配ると・・・

 「鶴に戦わせろ!!官位も給料も鶴が貰っていたんだから!!」

 と大ブーイングを食らった。当然です・・・

 仕方ないので、懿公はそれでも集まった兵隊を率いて狄軍勢と戦ったが、大敗北し懿公も戦死してしまった。

 敗北の原因は、兵が少ない事もありましょうが、懿公がいつまでも大将旗を降ろそうとしなかった為、狄軍に矢の集中射撃を食らった為と書かれております・・・これを勇敢とみるかバカとみるか・・・悩むところです。

 さて、懿公も戦死し守る軍が無くなった衛国は、狄軍に散々に蹂躙され、衛国は事実上滅亡してしまいました。

 諸侯の一つの宋国が衛国の惨状を聞き、軍を派遣して難民を保護した所、老若男女あわせて約700名ほどしか集まらなかったとも・・・
 
 そこで、登場したのが覇者である斉の桓公であります。

 斉の桓公は、軍を派遣して狄軍を打ち破り、難民を集め諸侯と協力し、「楚丘」と言う土地に城壁を築き難民を入れ、先に衛の成公に殺された太子汲の弟の子供を探し出して、衛の君主に即位させて

 衛国を復興させた。

 衛の難民は、太子汲の悲劇を忘れていなかったので、彼の甥の即位を大いに喜んだ。

 この時即位した太子汲の甥は、衛の文公と呼ばれ、
 粗衣をまとい、税を軽くし、己も臣民と共に働き、学問を奨励し、能力ある人物を採用して衛国を経済的にも復興させました。


〜私なりに懿公を考える〜

昔、何かの本で「むやみに何でもプレゼントすればいい訳ではない、その人が本当に欲しい物を与えて初めてその人の心を掴むことが出来る」と言う内容を読んだ事があります。

ハッキリ言って、鶴に官位やら与えるくらいなら田螺やザリガニでもあげた方がずっと良いだろう、懿公の愛し方は、鶴にとっても見当違いも甚だしい事であったでしょう。

 ただ、どうなんでしょう?

 祖父・父親の悪行の上に即位した為、臣民からは存在自体が忌まれた懿公にとって、「人」「国」は愛すべき対象に成り得なかったとも考えられなくとも無い気もします。それ故に、戦場で自爆とも言える行動に出たとも思ったりしますが・・・

 祖父・父親のツケを払わされたとも言える懿公に少し同情しないわけでもありません。

 とは言え、やっぱり歪んでるなぁ・・・と思います。

 最後に、懿公の戦死後のお話を一つ。

 狄との戦で戦死した懿公は、狄の者どもにバラバラに解体され、なんと食べられてしまったそうです。

 そして、肝だけが打ち捨てられた。
 (肝を心臓ととるべきか、肝臓ととるべきか・・・)

 懿公に可愛がられた弘演(コウエン)と言う臣下は、戦場をさまよい歩き、懿公の肝を見つけた。

 彼は大いに悲しみ、自身の体を懿公に捧げようと、自ら腹を切り自身の肝を取り出し懿公の肝を体内に納め、死んでしまった。

 ・・・と言う、お話があります。

 あら?鶴の他にも愛した臣下がいらっしゃったのですね、そして弘演に対しては愛し方を間違えなかったようですね。
 
 それとも、弘演は鶴の化身だったのでしょうか・・・お伽話の読み過ぎですな・・・一笑一笑



選ばれし者・・・魯国の季友(活躍期間:前669-前644)中国11人目
2014/07/01

 「一週間で、一人挙げるか、何かコラムを立ち上げる」と言う目標を持っていましたが、全く守ってない私・・・けしからんですね・・・反省します。

 今回は、「季友(キユウ)」と言う方を取り上げます。

 季友は、先に取り上げた魯の荘公の末の弟です。
 つまり、二つ折りにされて亡くなった、桓公の子供でもあります。
 母親は、2説ありまして、荘公と同じく「文姜」を母親とする説と、陳国の公女を母親とする説があります。
 ちなみに、史記では後者の説を採っております。

 彼が生まれる時、父親の桓公は、占い師に「どんな子供が生まれるのか?」と占わせたそうな、

 占い師曰く「男子です、しかも後に公を補佐し公と同様に尊敬されます。彼の子孫が滅びますと、魯国は振るわなくなるでしょう」との事、嘉言です。

 さらに生まれた際に掌を見ると、なんと「友」の字と読めるしわがあったので、名前を「友」と名付けた。

 と、明らかに後世の人が作ったかのような、不思議な現象を身にまとって、彼は生誕した。

 因みに「季」は「4番目若しくは末っ子」と言う意味がありますので、「季友」⇒「末っ子の友」という事です。正確な姓名は「姫友」です、あ・・・こっちでも「キユウ」ですね・・・(笑)

 さて、将来、魯国の補佐をすると予言された季友ですが、残念な位に出番が無い・・・

 30歳を超えても、出番が無い・・・

 やったことと言えば外交官として陳国へ2度ばかり往復したくらいです。

 私が季友でしたら、件の占い師を呼びつけて、怒っちゃうところです。

 そして、兄上の荘公が死にそうになって、やっと出番がやってくる。

 書き出しが遅れましたが、荘公には、腹違いの弟が季友を含めて3人います。

 1人目は、慶父(庶兄とも言われてますが・・・)
 2人目は、叔牙
 そして3人目が、季友です。

 さて、病厚く死にそうな荘公は、息子の子般に後を継がせたいと思いつつも、兄弟に跡継ぎの事を、聞く事にした。
 先ず、叔牙を呼んで尋ねてみると・・・

 叔牙曰く「兄上の慶父が良いと思う」と言いだした。

 あぁ、叔牙と慶父は仲が良いからなぁ・・・慶父が言わしたな・・・と憶測した荘公、次は季友を呼んで相談した。
 季友「私は、兄上の希望通り、子般様を盛り立ててお守りします。」と言ったので・・・

 荘公「でも、叔牙(後ろに慶父)がなぁ・・・どうにかしてくんない?」

 と、頼まれた季友、叔牙を荘公の名前で呼び出して、毒薬を用意し
 「これを飲んで死ねば、子供に後を継がせてやるが、飲まぬなら一族皆殺しにする」と中々恐ろしい事を言い出した。

 叔牙、どうしようもなく毒薬を飲みお亡くなりになりました・・・子供は約束通り叔牙の後を継いだ。

 叔牙を殺す事で、間接的に慶父の野望を挫いたのを確認し荘公は死没、子供の子般が後を継ぎ、季友は補佐になった。正に占いの通りに・・・と思われたが・・・

 慶父は、そんな事では挫けなかった。

 荘公の未亡人の哀姜(斉の桓公の妹)と密通し哀姜の子供(正確には哀姜の妹の子)の公子開の後見人となり、以前に子般にぶたれて恨んでた使用人を使って、子般を暗殺させ、公子開を即位させてしまった。※公子開は閔公と呼ばれる。

 いやいや・・・季友・・・いきなり荘公との約束守れてないじゃん・・・
 個人的な憶測ですが、斉の桓公も一枚噛んでそう・・・邪推ですね・・・覇者たるお方がそんな事に関わってはいないですよね、失礼しました!!

 さて居場所が無くなった季友は、交友があった陳国へ亡命した。
 この時かどうかは知りませんが、荘公のもう一人の未亡人の成風は、季友の出生秘話を聞き、自身の子供の公子申を託した。

 さて、季友を追い出した慶父は、自身の野望をもう一歩先に進め、子般を暗殺させた時と同様に、閔公に恨みを持つ使用人を唆して、閔公を殺害させ、魯国を自身の物にした。

 さぞかし、母親の哀姜は怒ったかと思いきや、そうでもないのです・・・むしろ、慶父と共謀したようです。
 所詮、自身が腹を痛めた子供じゃなかったからでしょうか?よく解らないが、とにかく慶父への情愛の方が勝ったと言う事だろうか?

 さてさて、野望を叶えた慶父と哀姜ですが、栄華は続かなっかたようで、

 慶父に不満を持った魯国の臣民が、亡命中の季友と公子申を招き入れてしまった。

 結果、慶父・哀姜はそれぞれ他国へ亡命し、季友に奉じられた公子申が即位した。※魯の僖公と呼ばれる。

 季友は、魯国の宰相となり、遂に予言は的中しました。

 さて、季友は早速、慶父が亡命した国へ贈り物を送り身柄の引き渡しを要求し、慶父は魯国へ送還される事になった。

 慶父は帰国の途上で使者を季友へ送り助命嘆願をしました。

 季友は使者に「大泣きしながら帰りなさい、それで慶父は解る」と言った。

 さて、使者が言われた通りにすると慶父は「大泣き=葬式の時の振舞い=俺は助からない」と悟り、自殺しました。

 ※因みに哀姜は・・・兄貴の斉の桓公に捕えられ「魯国を惑わした罪」として処刑されました。

 慶父による簒奪劇を収集した季友は、宰相として目立つ事は無いが、主に斉との友好を温めなおして、没するまで16年間、大きな変事も起こさず、魯国を安泰せしめたそうである。

 
〜私なりに季友を考える〜

 ハッキリ言って、最初この方を知った時は「占いほどでは無い」様に感じる方だと思いました。

 荘公死後の、後継者争いに最終的に勝った事を、後世の人が「選ばれた人」としてよいしょしただけに感じなくもないです。 しかも、最初に守る対象の子般を殺されてしまっているし・・・

 ただ、落ち着いて考えてみますと以下の2点は大いに褒められるべきかと思います。

 1.後継者争いで、大いに混乱した魯国を他国に侵略させなかった(特に斉国に対して)

 2.どういう政治を行ったか、記録にはないが16年間も何事もなく国を統治するのって凄い事だと私は思います。

 あと面白い事に、季友にとって謀反人の慶父・叔牙の子孫を迫害するどころか、重用しているようです。
 
 追記ですが、この後の魯国は春秋時代を通して、
 1.慶父の子孫⇒孟孫氏
 2.叔牙の子孫⇒叔孫氏
 3.季友の子孫⇒季孫氏
 の三氏によって運営されていく事になります。(桓公の子供の三氏なので、総称して「三桓氏」と呼ばれます)

 当然、その中でも季友の子孫の季孫氏の力は群を抜いておりました。
 
とにかく本人はどう考えていたかは知る由もありませんが、季友の活躍は上記の三桓氏による権力の独占への大きな一歩となった事は間違いない事でしょう。

 蛇足ですが、後に魯国に仕えた孔子様も、この三桓氏による弊害に悩まされた様です。

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