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北の山からこんにちは ?

 来場された団塊世代のみなさま、若いもんの話も真面目に聞いてくださいよ〜。

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春秋時代とは、なんぞや?諸侯編
2014/06/14

 さてさて、古代中国史に出てくる人物を私なりに扱い始めて遂に10人目に至りました。
 そこで、区切りが良いので「人物」から少し離れて、私が取り上げている人物達が活躍した古代中国の「春秋時代」とは「古代中国の文化」とはなんぞや?
 と言う事も、たまに取り上げていこうと思います。

 とは言え・・・私は、ただ下手の横好きでやっているだけなので、私なりにかの時代をこれから書く通りに解釈しているだけなので・・・結構間違える事も多いでしょう。
 
 そこは、海より深い寛大さでお許し願えたら幸甚です。

 前置きが堅苦しくなりましたが要は・・・

 「お前の扱っている時代の説明もないとようわからん!」

 と言う話になりそうなので・・・そういう事です。

 先ず、一般的には紀元前770年〜紀元前403年の時代を指して「春秋時代」と呼びます。

 なぜ「春秋」かと言いますと、かの孔子様が築いた教団で教科書とされた「春秋」と言う歴史書に記述されている時代だから・・・と、そういう事です。
 

 年表的に言いますと
 紀元前770年:周の幽王が殺された年
       ↓
 紀元前403年:かの時代を代表する大国「晋」が「趙」「魏」「韓」と言う3国に分割された年

 の間の時代です。

 時期の話は、こんな所です。
 さて、春秋時代とは中国において「どんな時代だったのか?」と言う事ですが、一言で言いますと。

 
 「群雄割拠の小国乱立編」の時代です。

 成り行きを簡単に書くと以下の通りです。

 古代中国の代表的な王朝は、「夏(カ)」と言う名前の国から始まり、暴君とされた「桀王(ケツオウ)」が「殷(イン)」と言う国により取って替わられ、その殷も代を重ねて「酒池肉林」で名高い「紂王(チュウオウ)」と言う暴君が現れた。

 その殷国に西の守りを託されていた「周国の文王(姫昌)」が周国を強大にし、その息子の「武王(姫発)」が、殷の紂王を滅ぼして、殷に取って替わった。(紀元前1046年)

 さて、殷に替わり中国を支配する事になった「周王朝」どうやって、広大な中国大陸を治めようか考え・・・

 「中国を分割し信頼できる血族や功臣に与えて統治させよう!」と決めてそれぞれに領土を与えた。

 「おい、お前に○○の土地を統治させる、お前の統治する領土は□□国と呼ぶ」ってな感じか。

 こうして生まれたのが「諸侯」です。

 で、周王朝は、こうして領地を配分した諸侯に爵位を与えて「格付け」も行った。
 
 爵位は偉い順に書くと以下の通りになります。

 「公」>「候」>「伯」>「子」>「男」

 例:斉国の爵位は「候」なので、斉国の指導者を「斉候」もしくは「斉の○○候」記述するのが本当は正しいのですが、斉の桓公で解る様に、私は面倒臭いので・・・

 周王⇒「周の○○王」・「周王」
 諸侯⇒「○国の△公」・「○公」
 と、最低限の区別で記述しております。

 因みに、今で言う「男爵」とか、そういう物の始まりはここにあります。
 
つまり、周王朝は、「周王」と言う支配者を頂点に、封建された諸国(諸侯)が従う封建制を採択したという事です。

 その諸侯の数、最初は1000国ほどあったそうです。
 
 当然、「血縁・功臣の子孫」も300年ほど経てば、「赤の他人」となる訳ですので、だんだんと周王朝の言う事を聞かないで、自分の所有する領地を広げようと近隣の弱小国を併呑し始める様になります。

 そして第1話で取り上げた周の幽王が、申候と犬戎の連合軍に殺されるにあたって、「春秋時代」が始まります。
 その時、1000ほどあった国(諸侯)は、100国程になっていたとの事です。
 
 そしてこの春秋時代を生き抜いた諸侯が、さらに激しく戦う時代から秦の始皇帝が中国を統一するまでの時代を「戦国時代」と呼びます。

 最後に、春秋時代でお話に良く出てくる代表的な諸侯を列挙します。ここで列挙されてない諸侯が出てきたら・・・誠に失礼ながら、「あぁ、そんな名前の国もあったんだね」と言う感覚で見ていただいて良いんじゃないかなぁ・・・と個人的には思います。

【諸侯一覧】

1.宋(ソウ)
  初代:微子啓(ビシケイ)←殷の紂王の庶兄
  爵位:「公」
  位置:河南省商丘
  国力:中の上
  特徴:殷の遺民を集めて建国された国
     役職名・文化等、殷の時代の名残を残す。
     殷の末裔と言う事から、他の諸侯からは、なにかと嘲笑の的になりがち。

2.魯(ロ)
  初代:伯禽(ハクキン)←周公旦の息子
  爵位:「候」
  位置:山東省曲阜県
  国力:中
  特徴:周王朝の制度や習慣を維持した。
     悪く言えば、柔軟性に欠け「伝統」「しきたり」ばかりにうるさい。
     しかし、その伝統を大事にする国風が後に「孔子」を育む。

3.斉(セイ)
  初代:呂尚(太公望)←姜子牙とも言う
  爵位:「候」
  位置:山東省臨シ県
  国力:中→上
  特徴:魯とは正反対で、開放的で決まり事も簡略化されている。
     管仲の改革により、強大化。
     国民自体は割と軟弱である為、「兵法」が発達した。
     兵法の大家「孫子」は、斉の出身とされる。

4.鄭(テイ)
  初代:姫友←周の幽王の叔父さん
  爵位:「伯」
  位置:陝西省華県→河南省新鄭市
  国力:大→中→小
  特徴:他の諸侯と比べると遅くに建てられた国
     交通の要所を占め、物流・商業が発達した。
     文化的な流行なども最先端を走った。
     同時に道徳や倫理の廃れも早かったらしい・・・
とある小説に書いてあっただけですが、美女が多かったとの事・・・( *´艸`)


5.衛(エイ)
  初代:康叔←周の武王の弟
  爵位:「候」
  位置:河南省淇県→河南省滑県→河南省濮陽
  国力:中の上→中→小
  特徴:殷の遺民と周の民が同居している国
     こちらも交通の要所であった為、商業が発達し文化等も最先端を走った。
     法律の大家「商鞅の出身国です。

     
6.晋(シン)  
  初代:叔虞(シュクグ)←武王の子
  爵位:「候」
  位置:山西省
  国力:中→強大
  特徴:元々はそれほどでも無かったが、分家が本家を乗っ取り隣国を滅ぼしまくって強大化。
     南方の楚と覇権を争った。
     後に、趙・魏・韓に分裂した。

7.曹(ソウ)
  初代:叔振鐸(シュクシンタク)←周の武王の弟
  爵位:「伯」
  位置:山東省定陶県の北西
  国力:弱小
  特徴:弱小な割に、軽はずみな行動で痛い目に遭う話ばっかりな国

8.蔡(サイ)
  初代:胡(コ)←周の武王の甥
  爵位:「候」
  位置:河南省上蔡→河南省新蔡→安徽省鳳台
  国力:弱小
  特徴:超大国の楚の隣であった為、楚に振り回される

9.陳(チン)
  初代:満(マン)←伝説の聖帝の舜の末裔を称する
  爵位:「候」
  位置:河南省淮陽
  国力:弱小
  特徴:蔡同様に楚に振り回される。
     血族の陳完が斉へ亡命し、その子孫は「田氏」を名乗り出世し、後に斉国を乗っ取る。

10.燕(エン)
   初代:召公(ショウコウ)
   爵位:「伯」
   位置:北京付近一帯
   国力:中(もしかしたら大だったかも・・・)
   特徴:地味。春秋時代には殆ど記述がみられない。
      戦国時代にポッと出た時には広大な領土を所有していたので、
      春秋時代は、中央を尻目に着々と領土を増やしていたのかもしれません。

11.楚(ソ)
   初代:熊繹(ユウエキ)
   爵位:「子」
   位置:湖北省・湖南省
   国力:大→強大
   特徴:周や他の諸侯と民族自体が違うとも言われている。
      文化等も独特の物があり、他の諸侯より「蛮族の国」として扱われた。
      国力に対して爵位が低い事に立腹し、周より離反し「王」を自称した。
      南方の諸侯を次々と滅ぼし、北上し華北の強大国の晋と覇権を争った。
      兵は滅法強かった。

12.呉(ゴ)
   初代:太伯(タイハク)←周の文王の叔父
   爵位:「子爵」後に「王」を自称
   位置:蘇州周辺
   国力:?→大
   特徴:周が殷を滅ぼすずっと前に、周の文王の叔父さんが出奔の上、建国した国だというが、甚だ怪しい。
      刺青などをし、楚同様、文化・人種が違う民族とも言い、「蛮族」として扱われた。
      冶金術に優れた。
      楚を牽制する為に晋国が戦闘技術などを教授し後に強大化する。

13.越(エツ)
   初代:夏王朝の末裔を称するとのみ・・・
   爵位:「子爵」後に「王」を自称
   位置:浙江省一帯
   国力:?→大
   特徴:こちらも文化・民族が異なる。
      こちらも冶金術に秀でた。
      こちらも刺青などをし、「蛮族」として扱われた。
      海上貿易も盛んにしていた。
      呉とは仲が悪い
      後に、南下し現在のベトナムまで移住したとされる。
      それ故に、現在もベトナムを現す漢字は「越」であるとの事。
      そういった経緯より現在でも「ベトナムは中国の一部」と中国人は考える事もあるらしいが、
      ベトナム人からすればいい迷惑である。

      
14.秦(シン)
   初代:非子(ヒシ)←殷の紂王に仕えた悪来の子孫
   爵位:「伯爵」
   位置:張家川回族自治県→陝西省咸陽市
   国力:弱小→大
   特徴:周の幽王が犬戎に討たれた後に周の平王を護衛し洛邑に送った功績により正式に諸侯に封じられた。
      こちらも、西側の端っこに位置した為に「蛮族」として扱われた。
      春秋期は、諸侯の争いを尻目に着々と勢力を拡大し、戦国期を経て「始皇帝」の時に中華を統一する。
     他国より優秀な人材を集め政治を見させる伝統と言うか癖がある。


主な所はこんなところでしょうか・・・簡単に記述できるかと思っていましたが意外と苦労しました・・・



我慢ときどき発散、魯の荘公(在位:前693年〜前662年)中国10人目
2014/06/09

 遂に・・・10人目に辿り着きました。万歳!

 記念すべき10人目は、誰にしようか考えましたが、結局の所、あまり意味付けなど煩わしい事はやらないで、淡々と取り上げようと思います。

 たまたま10人目になった方は、魯国の荘公です。

 名前は、姫同(キドウ)と言います。
 私の評価が低い【桓公】と変態のお相手として取り上げた【文姜】との間に生まれたお子様です。
 
 彼は、先の斉の襄公で取り上げた「桓公二つ折り事件」で父親が非業の死を遂げ、慌てた魯国の臣民によって推戴され即位しました。この時、およそ12歳くらい今で言ったら中学1年生になったかどうか位です。

 先ず、お母さんの文姜と縁を切りました。

 で、母親と父親の仇がイチャツクのを横目に、淡々と政務に励みます。
 余談ですが、文姜が襄公にお願いして、襄公が戦争で得た戦利品を魯国に贈らせたりする話もあるので、文姜も、一応母親としての自覚はあったようです。
 
 見方を変えれば、荘公が即位して暫く文姜が襄公と「〜で会合した」と言った記事が頻繁に書かれていますので、母親である文姜が襄公の機嫌を取り続けたお陰で荘公は、襄公の毒牙にかかることなく成長出来たとも言えなくもないです。それでも、そんな形で「生かされている」荘公、あまりいい気分ではない事は確かだと私は思います。
 文姜に関しては、単純に「このあばずれが!!」と批判して良い対象ではないのかもしれません、気が向いたら焦点を当ててみたいです。

 そんなこんだで、即位して8年、およそ20歳になった荘公に襄公による試練が与えられる。

 襄公に依頼(事実上の命令)で、とある小国を攻める事になった。
 結果、その小国は、斉の襄公の元に降伏した。
 そこで、荘公の弟(腹違い)の慶父(ケイホ)が大いに怒って「今から、斉を攻めよう!!」と荘公に詰め寄った。

 私は「斉が主体で攻めているんだから、斉に降伏したのに怒るのは意味が解らない・・・」と思います。

 そこで予想に過ぎないが、もしかしたら主体は魯国だったのかもしれません、そうなると襄公の命令で戦争をした訳ではなくなるが・・・

 無難に理解するなら、その小国を攻めるにあたって、主に全面に立たされ魯国は甚大な犠牲を払ったのに、斉国から何も分け前を与えられなかった・・・
 
 そう解釈する方が、私はすっきりしますが、それは予想と言うか妄想にすぎません。
 
 慶父が頭おかしいだけなのかもしれません(笑)

 話がそれましたが、慶父に荘公は諭して
 
「それはダメだ、私の徳が薄い為にこの様な事態を招いたのだ、暫くは徳を修める事に努め、時期を待とう」
 と言って引き揚げた。

 つまり、斉を糾弾するには、まだ力が足りないから我慢して力をつけるまで我慢しよう・・・ってことでしょう。とても20歳で言える事ではないと思います。
 いやぁ、当時の20歳って大人です。

 で、即位してからこの方8年も襄公に対して我慢していましたが、実はこの年の終わりに・・・襄公は、悪行が祟って、公孫無知・連称・管至父に惨殺されてしまいました。

 「やった!怖くて嫌な奴死んだぁ、万歳!!」ってところでしょうか、とにかく荘公は、我慢の人生が終わりを告げたと、少しは思ったと思います。

 しかも魯国には、「姜糾」と言う襄公の弟が亡命して来ており、こやつを斉国に送り込み即位させる事に成功したのなら・・・今まで魯国を虐げてきた斉国に優位に立つ事が出来る様になりうる状況になった。

 我慢どころか、上手く行けば「バラ色の人生」が彼を待っていたはずだったが・・・

 先に斉国に入った「姜小白」が・・・桓公として即位してしまった・・・

 更に、「乾時の戦い」で斉国に惨敗してしまった・・・
 この戦で、荘公は乗っていた戦車が壊れて転げ落ち、他の戦車を乗り継いで逃走し、荘公の二人の護衛は、荘公の旗を持って囮になって他の方向へ走り捕虜になったそうですから、正に「惨敗」です。
 
 さらに講和の条件で、手中の玉の姜糾を処刑し管仲を斉へ送る事になった・・・

 天国から地獄ってこういう事を言うのでしょか・・・

 「あ〜・・・また、我慢の人生だよ・・・」って落ち込んだと思われる、荘公に、追い打ちで・・・

 講和して半年も経たずに斉国が攻め込んできた。

 これは酷いと思います、ゲームとかだったら、即リセットボタンです・・・

 そんな絶望的な状況の魯国に、少々面白い人が流れてきました。
 管仲同様、失礼ですが「どこの馬の骨か分からない」人種の「曹ケイ(歳にりっとう)≒曹沫(ソウカイ)とも言う」と言う素浪人が魯国の窮状を聞きつけ、荘公に謁見しようとした。

※表記しやすい「曹沫」を採用します。

曹沫「俺は荘公様に謁見して意見をいうぞ!」

同郷人「やめとけって、お国の事は、お肉を食べる方々(偉い人)がちゃんと対策を練ってくれるさ、お前が出る幕ではない」

曹沫「お肉を食べる方々は、目先の事ばかりで、先の事は考える事が出来ないもんだ!」

これだけで解るように、曹沫さん・・・かなり辛口です(笑)
あと、当時「お肉を食べる」と言うことが一種のステータスだった事もついでに伺い知る事が出来ます。
そういえば、近代史においても「国民全員がお肉入りのスープを食せる国造り」をスローガンにしたお国がありましたなぁ・・・話がそれてしましました。

そうイキがる曹沫、普通は謁見など叶わないだろうに、あっさりと謁見が叶った。

荘公は、かなり度量が広いのか、はたまた藁にもすがる思いだったのでしょうか・・・
多分両方じゃないかと私は思いますが、それは本人しかわからないでしょう、

曹沫の辛口はここでも炸裂する。

曹沫「貴方は、何を頼りに戦うつもりでしょうか?」

荘公「私は、今まで暖衣飽食を独り占めにしないで、他人といつも分かち合った、きっとみんなその分働いてくれるだろう(自信満々)」

曹沫「そんなしょうもないおすそ分けでは、皆に行きわたず、下っ端は従うはずもないでしょう」

荘公「・・・それなら、私は神様に捧げるお供え物には、余計な物を付けて終わらせる事無く誠意を込めて神事に励んでおる、神様は私に加護を与えてくれるだろう(自信あり)」

曹沫「はん、そんなしょうもない誠意だけでは、神様の加護は得られません!」

荘公「うぅ・・・、私は、どんな訴え事に対しても、真相は掴めなくとも、実状の把握に努めておる・・・(少々心配)」

曹沫「そういう物事に対しての真心がおありなら、まだ戦えます、その時にはご一緒いたしましょう」

よく曹沫、斬られなかったよなぁ・・・
同時によく荘公ヒス起こさないで、我慢したよな・・・
ここら辺の掛け合いは、なんか深いものがあるように思います。
本当は、どうか判りませんが、曹沫は、荘公の上っ面の誠意ではなく、政務における真実の姿勢を知る為に上記
のようにこき下ろしたんかなぁとか、妄想しますが、どうでしょう?

ともあれ、荘公は曹沫を軍事顧問として、斉軍と向き合った。

そして、曹沫の進言に従い軍隊を指揮して、見事な大勝利を収めた。

どんな戦争の仕方をしたかも記録にありますが、省略します。いずれ別の機会に取り上げたいと思います。

ただこの戦争は春秋時代における名勝負として「長勺の戦い」と記録されております。

この大勝利より、およそ半年後、また斉が攻め込んで来る。
さらに隣国の宋国も斉に協力して攻め込んできた。

今度は「お肉を食べる方」の公子偃(コウシエン)が、活躍して先に宋軍に奇襲をかけ敗走させ、その有様を見た斉軍は戦わずして撤退した。

※因みにこの戦いで、南宮万は捕虜となる。

一年後、報復の為に攻め込んだ宋国を返り討ちにする。

この時、荘公およそ23歳、若いなぁ・・・

そして、即位して13年、荘公25歳の時、遂に斉国と講和する事になり、会合の席に荘公と斉の桓公が顔を合わせた。

先述の長勺の戦いに勝ったりはしてても、どうやら全体的には斉国に圧迫されていた様で、(斉の桓公の項目では斉が魯国に大勝したと書きましたが、どうやら実状は少し違ったようです。)魯国にとって不利な条件で講和する事に決まり、いざ調印のサインをする時に・・・また曹沫が現れた。

こやつ、こっそりと匕首を忍ばせており、だっと走って桓公に襲い掛かり、匕首を桓公の喉元に突き付けて、

「今まで、斉国が魯国から奪った領土をすべて返せ」

と迫った。

桓公は堪らず曹沫の要求を呑んで、魯国と斉国の講和が成った。

正に、荘公にとってヒヤリとしつつも、スカッとする出来事であった事でしょう。

ただ、少々残念ながら、この事件を例の管仲が利用して、斉の桓公の名声を高めてしまい、2年後には斉の桓公は諸侯の承認を受け「覇者」に昇格してしまう。

管仲恐るべし・・・

ともあれ怒涛の数年を乗り切った荘公、ちょっと、親父(魯の桓公)の廟堂に贅沢な趣向を凝らして臣下に怒られちゃったり、お母さんの文姜が死んじゃったりしながらも、比較的外寇もない平穏な日々に戻り・・・

10年後の33歳の時に、斉の桓公の娘を妻に迎え、斉国と本当の意味で講和が成り立つ。

 さらに比較的事件もなく、即位して32年、荘公は44歳にして没した。

 後日譚ですが、荘公の死後、後を継いだ子供の子般(シハン)は、哀姜(斉桓公の娘)が産んだ子供でなかった事から、哀姜は、慶父とグルになり、子般を殺害して、自身の子供(正確には妹の子)を即位させた。
 ここら辺のスキャンダルも話が長くなるので、別の機会に記述します。

〜私なりに荘公を考える〜

 このお方は、本当に「我慢の人」かと単純に思います。
 斉の襄公に逆らわなかったのは、「我慢強いとか、そういうのではなく、ただの臆病者で卑怯な男だ、大体父親の仇に協力するあたりあり得ない」と言う批判もありますが、私はそうは思えないです。「個人」であれば、全くその通りで異論はありませんが仮にも「国の責任者」であり自身の軽挙で臣民に甚大な被害をもたらす立場であるからです。
 「〜時期を待とう」とあるように、ただ我慢するだけの人ではなく、虎視眈々と飛躍の時を待つ我慢であるのも私個人は立派な指導者であると思います。
 憶測でしかありませんが、その人格は、即位してから立派とは言えなくても父親の仇を討てず、
母親は善意的に理解しても魯を守る為とは言え父親の仇に媚びるのを横目で見ていた8年間で培われたものではないだろうかと思います。
 さらに荘公は、身分や序列に対して「必要以上にうるさい」魯国の君主でありながら、「お肉を食えない身分」の曹沫を起用し、2度も斉国をやり込める辺りも荘公の君主としての資質が高いと褒めたくもあります。

 曹沫と言う偉人が荘公の元に来たのも今まで我慢してきた事に対する天からのご褒美だったとかふざけて言ってみたりします。

 残念な事に、弱小国で旧体制から脱却がことのほか難しい国柄の魯国の君主であった為、斉の桓公の引き立て役になりがちではありますが、個人の資質では私は斉の桓公以上に優秀な君主ではなかっただろうかと、かなり贔屓目に私は魯の荘公を考察します。

 最後に、荘公がいかに「我慢する人の怖さ」を理解していたかを伺い知る事ができる話を一つ。

 荘公の子供の子般は、ある時、召使いが無礼を働いたと言う理由で、鞭でしばき倒した。

 その話を聞いた荘公は「いっその事、殺すべきだ、鞭打つだけで放っておくのは危ない」と言った。
 
 荘公の死後、即位した子般は、慶父と哀姜にそそのかされた件の召使いによって殺された。
 

言葉に気を付けろや!!南宮万(活躍期間:前684年-前682年)中国9人目
2014/05/29

 さて、暫くお休みしてしまった分・・・テンション上げて記述をさせて下さい。
 別に、待っている方も居ないとは思いますが・・・(苦笑)

 今回は、宋(ソウ)の国で活躍した、ムキムキのタフガイである、南宮万(ナングウバン)と言うおっさんを取り上げます。
 その前に、宋国はどんな国だったか、超簡単に記述しなければなりません。
 宋国は、かの周に滅ぼされた殷(商)の国の生き残りによって建てられた国です。
 位置は、現在の河南省の商丘市に位置した国で、首都も商丘です。
 殷が滅ぼされた際、生き残った殷の紂王のお兄ちゃんの微子啓(ビシケイ)が周王朝によって封じられ、殷の遺民を集め建国された歴史がありますので、制度や役職の名前や文化・伝統も、ちょっと周王朝とそれに近い国々とは違う趣があったりして、面白い部分があります。

 さて、そんな宋国に、南宮万(字は長)と言う一人のタフガイがいました。
 不思議な事に、周王朝が殷王朝を滅ぼす際に活躍した周王朝の配下の「南宮括(ナングウカツ)」と同じ名字です・・・はて?
 勝手に妄想するなら、宋→殷の遺民による国→監視が必要→南宮括、お前・・・宋国に行け→その子孫が、南宮万???
 まぁ・・・どうでもいいですね、更にどうでも良いですが、後の世で孔子の弟子に「南宮括」がいるそうな、ネットサーフィンしてたら出てきました(笑)

 話がそれました・・・さて、この南宮万、筋骨隆々で武勇の誉れの高い猛将でありましたが、魯国との戦で捕虜になってしまった・・・・

 で、まぁ・・・宋国と魯国の間での交渉により、運良く帰国することが出来た。
 
 帰国後、「ご心配かけてすんません」と言う事だろうか、宋の君主(閔公(ビンコウ))に挨拶した所・・・

 宋閔公「俺さ、昔はお前の事、スゲー尊敬してたんだよ、だってムキムキやし・・・でも、お前、あっさり捕虜なっちまってよぉ・・・チョー期待外れじゃん、マジもうさ尊敬出来ないよね・・・」

 南宮万「・・・・・!?」
 
 そんな、悲しい事を言われてしまった・・・

 己の肉体が誇りであった南宮万は、目の前にいる軟弱者に明らかな殺意を覚えてしまった。

 その一年後・・・

 宋閔公が、蒙沢といる湖へ遊びに行った際に、博打用の盤(今の立派な碁盤みたいなやつ)で、閔公を殴り殺してしまった。

 彼はその足で、首都の商丘に舞い戻り、城門で大夫(貴族)の仇牧(キュウボク)と言うおっさんに出会い、自慢の鉄拳で彼を殴り殺した。ぶっ飛んだ仇牧の歯は城壁に突き刺さったそうな・・・・

 そして、そのまま宮殿に入りそこで、宋国の大宰(宋国では宰相をそう呼ぶ)である華督(カトク)と言うおっさんに出会い、それもぶっ殺した。(描写が無いがきっとこれも自慢の肉体でだと思います)

 そして、閔公の親戚を宋公の位に祭り上げ、政権を握った・・・・だがしかし・・・

 他の親戚の集まりが、他国の援軍を得て、巻き返しをかけてきた。

 南宮万は、同志の猛獲(モウカク)と息子の南宮牛(ナングウギュウ)に兵隊を預け迎撃させたが、残念ながら大敗北した。
 またつまらない事ですが、「猛獲」って三国志で諸葛孔明にけちょんけちょんにされる孟獲と名前が似てますね・・・
 さらにつまらない事ですが、南宮牛に猛獲っていかにもタフガイっぽい名前ですね・・・

 話を戻します、とりあえず、敗北した南宮軍、息子の牛は殺され(捕まって切られたか、戦死したかは不明)猛獲は、衛国へ亡命した。

 そして、南宮万の立てた君主も殺害されるに至って、南宮万も隣国の陳国へ亡命することにした。

 そこで、伝説がまた一つ生まれる・・・

 商丘から陳国まで、約80kmの道のりを・・・なんと自身の母親を載せた馬車を自身が引っ張って、1日で走破してしまった・・・・

 なんというタフガイ・・・

 さて内乱に打ち勝った、宋国の親戚連合軍は、新しく親戚の中で人望の高い公子の御説(ギョエツ)を君主に推戴し、猛獲の逃げた衛国と南宮万の逃げた陳国へ両人の引き渡しを求めた。

 猛獲は普通に捕えられ、宋国へ送還された。

 が・・・南宮万は・・・・音に聞こえたマッスルボディを誇るタフガイである。普通には捕まえる事は不可能である。
 そこで陳国の人々は、とある作戦にでた。
 「美女をはべらせて、酒をふるまい酔っぱらわせて捕える作戦」である。

 南宮万・・・見事に引っかかった・・・やはり、男の弱点は、女子と言う事か・・・解るような、情けないような・・・・複雑な気分です・・・

 陳国の人々は、普通に縛ったり手枷をかけるだけでは拘束は出来ないと考え、犀の皮で彼をすっぽり包み込んで、宋国に送還した・・・

 しかし最後まで伝説を作り出すのが、南宮万クオリティ・・・彼が宋国に到着した頃には、なんと・・・
 犀の革袋を突き破って、彼の手足が飛び出していたそうな・・・・
 さすがにそのまま走って逃げる事は出来なかったようで、彼は同志の猛獲と共に処刑され、塩漬け肉にされて宋国の皆様の血肉となりました。
 さぞかし、タフガイの血肉を頂いた宋国の臣民は、逞しい勇者となったことでありましょう・・・そんな事はないか・・・

 〜私なりに南宮万を考える〜
 よう、ここまでネタな漢が世の中にいたものだと思います。
 とにかく、結局彼は反逆者として始末される運命になった訳ですが、僕は素直に、彼の誇りを傷つける事を言う閔公の自業自得かと思います。
 「言って良い事と悪い事はあります、言葉の暴力はいけません!」と思います。
 巻き添えになった、仇牧さんは、素直に可哀想だと思います・・・え?華督さんは可哀想じゃないのだって?
 まぁ・・・今回のお話とは関係ないですが、華督さんね、若かりし頃に、人妻に恋して、その旦那ぶっ殺して人妻奪って、それを咎めた主君を「うっせぇ!」って殺して、自分に都合のいい人を君主に祭り上げて政権握った方ですから・・・この方は因果応報じゃないですか?と思っちゃたりします。

 【個人的に実に残念な事が一つ】、
 南宮万様には、是非とも息子や猛獲さんに任せないで前線に立ち、その自慢の肉体で戦場を駆け回って欲しかったと思います。

管仲の対立者であり大事な友達・・・召忽(活躍時期:前685年位)中国8人目
2014/05/27

あ、どうもです。
暫くご無沙汰しておりました。
危うく、このままフェードアウトするかと思われていたかもしれません。
せっかくページを頂ながらこの体たらく・・・誠に申し訳ないです。

言い訳させて下さい・・・最近、先に取り上げた管仲の教えやエピソードを弟子やらなんやらが、編纂し本にした「管子(日本語訳付き)」を運よくゲットし、読みふけり、「俺の書いた管仲はあれで良かったのだろうか?」など、少々考えたり、
改めて、春秋時代を振り返ってみたりと、

己の所業を振り返って今後、どの様に話を展開するか考えておりました。

時間をかけて考えたり、時にはスナックへ行って弱いくせに酒をあおって、家でくたばっていたりしていましたが・・・

結論からいいますと「ま、なるようなるでしょう」
と言う、前向きで、いい加減な結論に至りました。

そんな訳で相変わらずしょうもない記述を続けますが、お付き合い頂ければ幸いです。

そして、一点前回取り上げた管仲で誤りがありましたので、この場で訂正させて下さい。

「管仲は農業を軽視し商業を優先させた」と言うニュアンスで記述をしましたが、管子を読みますとそれは誤りで、正しくは「管仲は、農業を大いに奨励し、商業はそれを助ける手段として工夫を凝らした」が正解でした。

 大変申し訳ありませんでした・・・

 さて、本題の召忽(ショウコツ)さんですが「管子」を読んでみた所、是非とも取り上げたいお方だと思いましたので、本当はどんどん先へ進むべきかもしれませんが、少し足踏みをしようと思います。

 召忽は、「管子」によれば、斉国の臣下で、管仲・鮑叔と同僚であったそうです。
 出自などは記述はありませんが、おそらく斉の貴族の一人じゃぁなかろうか?と私は思っています。

 さて、召忽は「管子」に書かれている管仲のエピソードにちょぴっと出てきますので、それを追うように彼を紹介したいと思います。

 エピソード1(鮑叔の仮病)
 管仲・鮑叔・召忽が斉に仕え、ほどなく、管仲・召忽は、当時の斉国の指導者の僖公より公子の糾の教育係を命じられて、鮑叔は公子の小白(桓公)の教育係を命じられた。
 鮑叔は、小白の教育係になるのが、死ぬほど嫌で、仮病を使って家に引き籠ってしまった。
 (そこまで嫌がられる小白って・・・笑ったらいかんよな・・・でもなんか笑いたい・・・)
 管仲と召忽は、鮑叔を心配して、鮑叔の家を訪問し何故そこまで嫌がるか尋ねた。
 そしたら鮑叔は「ご主君は、私を無能だと思ったから、小白様の教育係りを仰せつかったのだ、つまり私などいなくても良いと言う事ではないか・・・」と言った。
 (ちょ・・・(笑))
 召忽「そうか・・・わかった、そういう事なら、私からご主君に「鮑叔は病状が思わしくない」と伝えておこう、きっと今回の人事を撤回してくれるだろう」
 と、小白にとっては誠に泣きたくなるような話になりかけていた時に、管仲が口を挟んだ。

 管仲「いや、それはダメだ、ご主君から役目を与えられたなら、どんな仕事でも一生懸命励むべきだ、それに小白様は、お前が思っているほどダメな人間ではない、あのお方は、小細工を弄さず、物事を広い目で見る事が出来る人であり、スケールがデカ過ぎる為に他人に理解されないだけだ、」と言った。
 (褒めているんだよな・・・見方を変えればただの単純で大ぼら吹きとも取れるが・・・)

 続けて管仲はこう言う
 管仲「それに、後継者は、誰になるか確定した訳ではない、順番で言えば諸児(襄公)様、糾様、小白様だが、何か一波乱が起きれば、どうなるかは判らない。上二人が失敗したなら、斉国の指導者は小白様となろう、その時、鮑叔が小白様に仕えていれば、何かあった時の備えとなるだろう」と
 (ほんと、その通りになりましたね・・・)

 ビックリしたのは、召忽・・・
 召忽「おま・・・!!なんちゅうことを!仮にも私は糾様の教育係りを命じられている、私は何があっても糾様の為に働き、糾様の為に死ぬつもりだ、それが臣下ってもんだろ!」

 管仲「私はそう思わない、臣下の忠誠を誓う対象は、「人」ではなく「国」だと思っている。臣下が死ぬべきは国が滅んだ時であり、仕えている人が死んだ時ではない」

 と・・・何故か人の家で、鮑叔を放って喧嘩し始めた二人・・・多分見かねたんだろうね、鮑叔は、こう尋ねる。

 鮑叔「私は、どの様に仕えたらいい?」

 管仲「そりゃぁ、全力で真心をもって仕えるべきだ、そうしないと相手の信頼を得られない、信頼を得ていなければ何を言っても聞いてもらえないだろ、二心は決して持たないことだ」

 それに関しては召忽も異論はないようで、その場は収まり、鮑叔は仮病を止めて小白に仕えるようになった。

 自分の意見は全く曲げない管仲と召忽、当たり前の事を敢えて尋ねてて喧嘩を収めた鮑叔・・・後半はどっちが気を使っているのか判らなくなるちょっとおかしなお話です。

 それにしても、小白・・・扱いが切なすぎると思うのは私だけでしょうか?

 エピソード2(管仲、小白に仕える)

 先のお話から暫くして、先述の通り君主の席を争ったレースに負けた糾グループの管仲と召忽、今度は「乾時の戦い」と言われる戦で、魯軍に参戦し斉軍と戦い、大敗北を決した。
 蛇足ですが、この戦で管仲は大いに奮戦し、管仲の部隊は斉の桓公(小白)に肉薄し、管仲の放った矢が桓公の帯の金具に当たった。と言う話もある。
案外、レースの最中に矢を放った話よりこちらの方が真実味があるかもしれませんが、私はお話的にはレース中の出来事の方が面白いのでそちらを取りたい気持ちはあります・・・

 とにかく、この戦で負けた事で、魯国は斉国が出してきた条件をのみ、公子の姜糾を処刑した。

 そして、管仲と召忽の身柄を引き渡す事も斉は要求してきた、そこで管仲は、鮑叔の好意を察し斉国へ捕虜として向かうことを決意し、召忽にその事を伝え共に斉へ行こうと誘った所・・・

召忽「なるほど、君の言う通り私たちが斉国へ行けば、きっと優遇され出世する事が出来るだろう、
だが、私は姜糾様を殺した相手に仕えたくない、
君は生き延びて斉国の為に大いに働け、私は姜糾様の後を追って自殺する。
私が、生き延びれば優遇されると知りながら自殺する事で、世間は姜糾様を「あの人は、忠義に厚い臣下を持っていた」と褒めてくれるだろう、
君が、生き延びて能力を発揮し斉国を栄えさせてくれれば、世間は姜糾様を「あの人は、国の為に命を全うする臣下を持っていた」とやはり褒めてくれるだろう。
お互い、姜糾様の為にふさわしい道を歩もうではないか」

と言って自ら首をはねた。

そして管仲は、先の通り斉国の宰相として大いに活躍した。

世間の人々は二人を「召忽が死を選んだのは生き延びるより立派だ、管仲が生き延びたのは死ぬより立派だ」と評価した。


〜私なりに召忽を考える〜

 「勝てば官軍」と誰もが知っている言葉があります、この言葉通りで有れば、後継者争いに敗北し非業の死を遂げた姜糾は「あいつは、バカで阿保でどうしようもない奴だったから死んで正解だった」と後世の歴史に記されるはずであったにも関わらず、今の所、私がこの時代を勉強する上で、姜糾の悪口を書いた書物を見たことが無い、それは一重に、召忽が命を懸けて姜糾の名誉を守ったからに他ならないと私は思う。
 そして、召忽は自分では言わないが、自身が進んで死を選ぶ事で、管仲を生き延びさせ「生き延びたからには、しっかり成果をあげるよう」無言の圧力と言うか応援をかけたとも私は思う。
 もちろん、管仲が斉国の宰相として活躍出来たのは、本人の力量と鮑叔の力添えと桓公の厚い信頼が不可欠ながら、「召忽が死んだのに自身は生き延びた」と言う後ろめたさも多少はあったと思います。
 鮑叔と管仲の友情は当然素晴らしいですが、
 私は、召忽と管仲の様に対立しながらも、最後はどっかどっか解っている・・・これも友情ではないかと思います。

 故に「管子」に彼の発言や大事にした事が記述され後の世に残ったのでしょう、と思います。


 ・・・ハッキリ言わせて頂ければ、こんな真面目な話の展開・・・私の柄ではありません!!(`・ω・´)

 だがしかし、この召忽という好漢を紹介しない訳には・・・いきません!

 だって、不覚にも「管子」で召忽の死んだ訳の所を読んでて・・・泣きかけたのですもの・・・

 さて、次回からはまたふざけさせて頂きます!!
 
 明日も、生きている事に感謝して元気にいきませう!!

 酔ってませんよ・・・えぇ、酔ってませんとも・・・


中国史屈指の名宰相:管仲(活躍期間 前685年-前643年)中国7人目
2014/04/27

 さて遂に管仲に辿り着きました。
 中国の名作:三国志に登場する名軍師の諸葛孔明が「私は管仲や楽毅の様になりたい・・・」と言ったその内の一人の管仲です。
 身内の話で恐縮ですが、我が家の父上も、諸葛孔明が大好きで、「諸葛孔明が尊敬しているのだからきっと素晴らしいお方なのだろう」と無条件に管仲も尊敬し史記の管仲の話をやたらと読んで、「やっぱり管仲素晴らしいお方じゃないか」とか言い出したりがあったものですから、私も「管仲」には改めて焦点をあてて「管仲は何が凄いのか?」と言う事を書きながら考察してみたいと思います。

 さて管仲は、正式な名前は「管夷吾(カンイゴ)」と言います。
 「仲」は、「字(アザナ)」と言われる二つ目の名前です。
 当時の中国人は、「正式な名前」と「他人に呼ばせる為のもう一つの名前」を使い分けていたという事です。
そこら辺は、改めて書きたいと思います。

 さて、少し話がそれましたが、管仲は史記によると頴上の出身だそうです。
 頴上は、1.現在の安徽省の頴上
     2.河南省に流れる潁河のほとり
 の二説がありますので、結局のところ「管仲の出身は判りません」って事になります。
 身分もよう判りません、「昔、管叔鮮って周王の弟がいたから、その子孫かもしれん」と言う話も聞きますが・・・
 とにかく、よう判らない事ばかりです。

 さて、言葉は良くないが「どこの馬の骨とも判らない」管仲には一人の親友が出来る。

 先に書いた斉の襄公が滅ぼした「紀国」の公族の子孫である真に貴公子の鮑叔(ホウシュク)(正式な名前は:牙)です。

 この二人はかなり仲が良かった様で、一緒に商売を行ったりしたのだそうです。

 そのうち二人は、斉国に入り仕官して、管仲は姜糾に仕え、鮑叔は姜小白(後の斉桓公)に仕えた。
 なぜ、二人は一緒の主君に仕えなかったのかと気になる所もありますが、それは後になんとなく予想出来る事になります。

 さて、先の斉の桓公で触れた通り、斉国の後継者争いで、姜糾・管仲は敗北してしまい、死を待つ状況に追い込まれてしまいました、

 その時、親友で桓公に仕えていた鮑叔が桓公に次の様に進言する。
 「我が君が斉国を統治するだけなら、私と高ケイ(斉国の貴族)がいれば十分です。しかし覇者として諸侯に君臨したいなら管仲の力が必要です」と・・・

 あぁ、仮に姜糾が勝ったのなら管仲が鮑叔を助けただろうな・・・そういう事かぁ・・・とちょっと邪推します。
 さらに邪推するなら、先に書いた桓公の下りで、
「管仲は魯国から兵を借りて桓公の命を狙ったのに、矢を射ただけで何故その後に突撃を仕掛けなかったのか?あぁ、そうかその一団に鮑叔がいたからか!」とも・・・

 当に親友ってことでしょうか

 さて、鮑叔の進言を聞いた桓公は早速、管仲を処刑せず面接した所、管仲の才能を感じ取ったのでしょう、鮑叔の奨め通り、管仲を最高位の宰相に任命して斉国の政治を司らせた。
 鮑叔は、管仲の下に付き彼を補佐した。

 そして管仲は、斉国の政治改革を行い富国強兵を成し遂げ、斉国はその経済力・軍事力を背景に「覇者」への道を進む。

 さて、管仲は、どんな改革を行ったのだろうか?そこを列挙・考察したいと思います。

〜管仲の富国強兵策〜

1.その土地にあった特産で大儲け(^◇^)

  当時、中華の税の主体は、農業であったそうで、かの周王朝の偉人、周公旦が考えた「公田制」っちゅう、土地を「井」の字に区切り、
外側の8区画を8家族に与え、残った真ん中の1区を「公田」として共同で耕作させて、あがった収穫を「税」として貢納させる制度が一般的だったそうです。

 管仲は、斉国では「農業を振興するより、もっと儲かる産物がある!そう、海があるじゃないか・・・!」と考えたようで、
従来の公田制を廃止し、「塩」の生産と漁業を振興したそうです。
 確かに、中国大陸を見ると面積の割に「海に面した土地」がいかにも少ない・・・その中で斉国は、海に面した土地が実に多い。
 
この「塩」「海の幸」を特産品として、各地に売りさばき大儲け→斉国で商業が発達→人が集まる→吸い上げるお金が増える・優秀な人材も集まる→増えたお金と優秀な人材を元に更なる発展が見込める。
 なんだか、「楽市楽座」みたいです。

 なお付録ですが「衣食足りて礼節を知る」と管仲が言った様に、国が豊かになることで国民の生活水準が向上し自然と礼節を身に着け、治安の上昇につながる効果もあったようです。


2.職業の世襲制を強化する事でその道の「プロ」を育てる(`・ω・´)

 管仲は、先ず土地を区分けして、雑居していた人々をそれぞれ決まった土地に移住させた。
 簡単にまとめると以下の通りです。

 「士(貴族・軍人)」→清閑の地
 「農(農民)」   →田園
 「工(職人)」   →官庁の近く
 「商(商人)」   →市場の近く
 この事により、同じ職種の人々が情報を共有し易くし更なる技術の向上が見込まれる上に、
同じ職種の人々の中で育った子供が親の技術を受け継ぎ、各部門での生産性の向上悪くても維持を見込む事が出来、
世襲制が強制ではなく自然と強化される事により、身分の安定化が図れる。

※下剋上による国の混乱を抑える効果もあります。


3.5戸(家族)を1つの単位として相互監視の義務を課す(´-ω-`)

 表現だけを取るとちょっと怖い内容です、確かに「お隣さん、怪しいわ・・・他国の工作員かしら」と国にとって危険人物を摘発させる意味合いも強いでしょうし、当然「連座制」もあるかと思いますので「あの、お宅が悪さしたら我が家も怒られるからしっかり見張らなきゃ」と言う意味合いもあるでしょう。

 ただ、この「相互監視」悪いだけではないのです。
 お互いの家が積極的に他家を気にする事で、「戦争で稼ぎ頭が死んだお宅」など、自力で生きていけないお宅を助ける効果もあるのです。
 現代の様に「社会福祉制度」が整備されていない時代では、地域の繋がりは現代以上に必要不可欠であり、それを強化する事で、国民がよりよく生き抜く事が出来る様になる訳です。


4.ルールを守らない者には厳罰を科す( ゚Д゚)<‐ャギ

 これは、そのまんまですね・・・
 とにかく「悪い事したら、怖い事になるぞ!!」と言う事です・・・当然、悪い子は減って、治安は向上します。

 そして、国内の政治で行った1〜4の施策は、軍事にも転用可能なのです。
↑ただ、これは私の想像でしかありません・・・ただ、そんなに的外れではないと思いたいのですが・・・

1.お金が多ければ「いい装備」が揃えられるし、軍事に関しても優秀な人材は多ければ多いほど良い
2.軍人の子は、さらに優秀な軍人になる率があがる。
3.戦場において工作員の摘発・脱走兵の抑止・負傷兵の生還率向上、戦争は個人プレイじゃなく、5人で1組の団体戦へ。
4.命令にちゃんと従って高い規律を持つ軍団が編成可能

 管仲は以上の政策により、斉国の富国強兵を成し遂げたようです。

〜私なりに管仲を考える〜

 今回は、やたらと「管仲は凄い、素晴らしい」と言う評判ばかり聞くが・・・
「じゃぁ、そんな管仲はどんな政治を行ったのですか?」と意地の悪い発想で、自分なりに調べてみました。
 先ず、何が凄いかと言うと、農業から商業への転換の様に、「今までコレが当たり前」というモノをコロッと変えてしまう所が凄いのではないだろうかと感じます。
 「商業」に目が行くところは昔に鮑叔と商売をやっていた頃に養った経験から来ているかと思いますが。

 次に、何となく・・・であった制度や区画などをキッチリ整理し物事を効率化する所が凄い所かと思います。

 「良いと思ったら変える」「面倒臭くてもしっかり整理する」それを行えば当然良いのは解っていますが、これが中々できないと思うのです。

 私などは、上記2点は特に苦手です・・・

 ましてや個人ではなく国家ですから、変わる事を嫌がるお方も多いでしょうし、管仲など「どこぞの馬の・・・」と思っていた方も多いでしょう。
 その中で、改革を断行する事が出来る事も凄いところだと言えないでしょうか、当然、斉の桓公・鮑叔の力添えがあったから出来た事でしょうが。

 ついでながら、世の人々はこうも言います。
 「管仲は確かに優れた人物だが、最も優れていたのは彼の才能を評価し桓公に推薦し、自身は管仲の下で働いた鮑叔である」と・・・

 なるほど・・・

 最後に管仲が親友の鮑叔を語った内容が素晴らしいので、真面目な文章ですが書かせて頂きたいと思います。

「私は鮑叔と商売をした事がある、その売上を私は多めに貰ったが、彼は私を貪欲だと非難しなかった、私が貧乏であった事を知っていたからだ。
 私は鮑叔の為にある計画を立てたが裏目に出て彼を追い詰めた事がある、しかし彼は私を愚かだとは言わなかった、物事には時の不利・有利がある事を知っていたからだ。
 私は、3度仕官して全て追い出された事がある、しかし彼は私を無能だとは言わなかった、私に運がなかっただけだと知っていたからだ。
 私は、3度戦争に行って全て逃げ帰った事がある、しかし彼は私を臆病者とは言わなかった、私に老いた母がいる事を知っていたからだ。
 姜糾に仕え敗れた時に、他の家臣は自殺する中で私は自殺する事はせず牢に入れられ辱めを受けたが、彼は私を恥知らずとは言わなかった、私にとって最も恥ずかしいのは功名を天下に鳴り響かせる事が出来ない事である事を知っていたからだ。
 私は父母より生を受けたが、私を最も知っているのは鮑叔である」

・・・・と。

 貧乏な時の友情が豊かになっても続く、そんな友情を
「管鮑の交わり」と言うそうな。

 私も鮑叔を見習って、数少ない友達をもっと大事にしようと思った今日この頃でした。

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