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北の山からこんにちは ?

 来場された団塊世代のみなさま、若いもんの話も真面目に聞いてくださいよ〜。

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旅は人を大きくする・・・と?晋の重耳(旅行期間:前655年-前636年)中国19人目
2015/07/14

いやはや、今まで大変ご無沙汰しておりました。
大変申し訳ありません。
ずっとサボってしまっておりました。

俊水先生からは、「私が辺境に飛ばされてしまったのか?」と大家様に連絡があったりした事に大いに驚愕しております。

あぁ、私ごとき愚者の駄文を読んで下さっている方がいらっしゃる・・・しかも、私ごときの心配までしてくださっている・・・と、誠に申し訳ない気持ちと、有り難い気持ちで一杯でございます。

今回の事を大きな励みとして、行きたいと思いを新たにしました。

さて、今回取り上げる人物は、この時代の「超有名人」であります、春秋五覇に必ず数えられる「晋の文公」こと「重耳(チョウジ)」であります。

 「知ってるよ!!」と言う声が沢山風に乗ってきそうですが・・・まぁ、お付き合い下さい。

 さて、この方は、実にこの時代の中で物語が多い人物です。
 ですので、私もこの方は2部に分けて記述したいと思います。
 今回は「晋の文公として即位する前の物語」を記述したいです。

 それに、この「即位する前の話」の方が人気が有るみたいで知っている方々も多いと思いますので、読みやすいかと・・・

 さて、この重耳はかの晋の献公の2番目か3番目くらいの男の子です。
 
 長子の申生、兄弟の夷吾と共に「優れている」と言う評判はあった様ですが、なにが優れているか発揮する機会もなく淡々と過ごし・・・

 43歳になった時「驪姫の乱」と呼ばれる政変(?)が有り、長子の申生は謀反の罪で自殺に追い込まれ、「申生派」とされた重耳・夷吾は共に居城を父親に攻撃される事になってしまいました。

さて、困った重耳・・・そこに某宦官(宮仕えする去勢された男性)が現れ「もう諦めて申生様の様に潔く自害した方が良いでしょう」と進めて来た。

 重耳「嫌や」とすっぱりと進言を退ける。

 実はこの某宦官・・・献公の回し者でありました。
 
 「ならば・・・お命頂戴!!」と言わんばかりに、隠し持っていた短刀で重耳に斬りかかった。

 重耳、まるで20代の様な運動神経の良さを発揮し、垣根を乗り越えてこの凶刃から逃れたが、どうやら間一髪だったようで、衣服の一部が見事に切られていた様です。

 さて、回し者が城内に居るようでは、籠城をしても守り切れるはずがございません。

 重耳は思いっきりは良かった様で、信頼できる部下達に声を掛けてさっさと、城を捨てて母親の実家に亡命しました。

 因みに恵公でも書きましたが、重耳の母親も「テキ」と呼ばれた異民族の出身です。

 さて、献公は部下をして「テキ」へ兵を出し重耳の引き渡しを要求するが、「テキ」は重耳を守る為、晋軍と会戦に及び、重耳を守り切った。

 本当・・・かの「異民族」とされた部族の正体は一体どういった者だったのでしょうか?
 文化は?生活形態は?人口は?軍事力は?
 気になります。その事が書いてある本を探してみましょうか・・・?
 話がそれました・・・とりあえず、「テキ」と呼ばれる部族は、軍事大国である晋国の軍隊を防ぐだけの軍事力があったと言うことでしょう。
 実際、この後晋軍の「テキ」に対する侵攻は有りません。

 さて肝心の重耳ですが・・・この「テキ」の地で、嫁を貰い子供にも恵まれ約8年ほど平穏な生活を送りました。

 その間、晋国は献公が無くなり、里克の乱が起き後継者の奚斉及び弟の悼子も殺害され、梁国へ亡命していた夷吾が即位して恵公となり、秦国とは韓原の戦いを起こして敗北を喫していた。

 先の恵公の所で書きましたが、恵公が秦国の捕虜となった際に「恵公殺されたら重耳呼んで即位させよう」と考えた者がいたらしい・・・

 それを感じた恵公は、自身の位を脅かす可能性がある重耳に死んでもらおうと、暗殺団を送りこみました。

 余談ですが、この暗殺団にかの重耳の衣を切った某宦官が加わっていた様です。

 さらに余談ですが、とある小説ではこの某宦官、剣豪扱いされており・・・実にかっこよかった・・・(笑)

 さて、恵公も母親がテキ族の出身でテキ族には顔が利くし、晋国からテキは近いし、某宦官は剣の達人かどうかは知らないが重耳の顔は知っている。

 さすがに、一家団欒を満喫出来る状況ではなくなった重耳・・・「優秀な」部下の進言を聞き入れ、

 旅に出る事にした・・・

 目指すは、当時の覇者「斉の桓公」がいらっしゃる大国の斉国、そこに辿り着ければ、安心できることだろう。

 重耳は残していく妻に「25年待って俺が帰ってこなかったら再婚しなさい」と言った所、

 妻「そんなに待ったら、私の棺桶用に育てている柏の木が大きくなってますわ」と失笑

 まぁ、アレだね「再婚なんかして欲しくないけど、でもずっと待ってろってのも良くないよなぁ・・・」と言う気持ちから発したちょっと可愛くも頓珍漢な発言なんでしょうね・・・

 さて斉へ向かって旅に出た重耳御一行様、晋と斉の間に位置する衛国に辿り着きました。

 時の衛の指導者の文公は、重耳一行を厚遇はしませんでした。
 と言うか、迫害もしないしお持て成しもしない見事なまでに「ガン無視」でした。
 衛の文公は、名君と誉れ高い人物ですがどうした事でしょう・・・
 この衛の文公、先代の懿公が国を滅ぼした後に再興された衛の初代指導者であり、自分自身も民と同じ物を食べ同じ物を着て荒れ果てた衛国の国力の回復に努めた方ですので・・・
 ハッキリ言っちゃえば「他国から来たお坊ちゃんに食わせる飯はねぇ」って事でしょうか・・・

 そんな訳で衛国では、重耳御一行は、ヒモジイ思いをしながらも旅をすることになります。

 五鹿(ゴロク)と言う町に至った時、たまたま見かけた農夫に「飯くれ〜」と頼み込む始末。
 
 そしたらその農夫「土を大盛り」にして渡して来た。
※一説によると「土器に食事を載せて来た」

 重耳は、怒り心頭に発して「この野郎!!」と・・・
※土器の場合も「貴人は玉の皿などを使って食事をするのに、飯を土器に載せるなんて・・・!意味で怒ったんだろね。

 しかし、重耳の臣下の「孤偃(コエン)」は、「土(土地)を貰うとは何という吉兆!!謹んでお受けなさい」と重耳を諌めて、受け取らせた。

 う〜ん、土の大盛りより「土器に飯を載せた」の方が私はありそうな話だと思います。
 で、復興中の国民相手に「貴族の飯」を要求する重耳が旅に出たばかりで、まだ「お坊ちゃん」でした・・・って方が個人的には面白いと思うのですがいかがでしょう?

 後に重耳から「仕返し」される衛国の国民としては困った話ですが・・・

 さて、目的地の斉国に着きますと、重耳一行は、
斉の桓公に厚遇される事になります。
 晋国の相続資格を持つ公子を持ち晋国に介入する事を狙って厚遇した・・・と言うよりも、どうやら例の名宰相である管仲の様な優秀な人物を求めていたようで、
優秀な配下を従える重耳を斉国の重臣として迎えたかったと言う話もあります。

 兎に角、重耳は斉国にて斉の桓公の娘(一族の娘の方が正しいかも)と結婚し、これがまた才色兼備な女性であった様で重耳は、斉の桓公が亡くなって内乱が起きた時も特になにもせず大望も忘れ自堕落的な生活を送る様になってしまいました。

 「これはいかん」と心配した重耳の部下達は、斉国を出てまた旅に出ようと相談をしますが、重耳の奥様の侍女の耳に偶然入ってしまった。
 侍女は、早速奥様に報告した所、可哀想に奥様に「口封じ」として処刑されてしまいました。
 実は奥様も、重耳の自堕落的な生活に危機感を感じ「このままではいけない」と思っていたようで、この後、重耳の部下と相談し結局、
 奥さんが重耳を泥酔させる→部下達が重耳を運び出して斉国を出国する。とまぁ単純は方法で彼を斉国の幸せで自堕落的な生活から引きずりだしました。

 目が覚めたら、奥様がいない・・・てか、馬車に乗って周りはお兄さんからオッサンまで男しかいねぇ・・・
 状況を理解した重耳は、烈火のごとく怒り狂って、主犯格の孤偃に噛みついた、

 

意外と立派なんじゃね?晋の恵公(在位:前651-前:637)中国18人目
2015/04/30

 あ・・・どうも・・・明らかにフェードアウトしたと思われても全く文句が言えないです。はい、すいません。

 えと、まぁ、色々ありますが、結局の所、私が帰る所は「この世界」しか有り得ませんので、なんだかんだ言って帰ってはきます。(苦笑)

 さて、今回は、はっきり言って人気は無いだろうと思われる「晋の恵公」正式な名前は「姫夷吾(キ イゴ)」を扱ってみようかと思います。

 夷吾って以前に扱った管仲と同じ名前ですね、結構流行っていた名前なのでしょうか?まぁ、どうでも良いですね・・・(笑)

 さて、誠に失礼ながら面倒臭いので彼はこれから「晋の恵公」と呼ばせて頂きます。

 彼は、父親は、以前書きました「晋の献公」母親は、テキ(羽の下に隹)と呼ばれた民族の娘さんです。

 兄弟は、申生・秦穆侯の妻・重耳・奚斉・悼子です。

 他にもいるらしいですが、史記等に書かれていないので申し訳ないが割愛します。

 さて、晋の献公・申生・驪姫の辺りを読んでいれば流れは判るかと思いますし、また一から書くと「くどい」と思われますので、そこも割愛します。

 ですので、晋の恵公は驪姫が起こした「申生抹殺計画」に残念なことに巻き込まれてしまい、父親の献公に殺されそうになります。

 恵公は、先ず自身の「屈」と言う居城に籠って、抵抗を続けました。
 ※因みに、兄弟の重耳はさっさと居城の「蒲」から脱走し母親の故郷の「テキ」へ逃げ込みました。
  
 恵公は激しく抵抗し屈にて1年以上持ちこたえましたが、さすがに限界が来た様で、亡命を考えました。

 で、自身が信頼している部下に「さて何処へ逃げ込もうか、やっぱり母親の郷のテキが良いかな?」と相談する。
 部下曰く「いやぁ、そこはいかんでしょ、先に兄上の重耳様が逃げ込んでますよ、遅れて逃げ込んでも厚遇されないし、万が一テキがお父上に敗れたら、兄弟揃って殺されてどちらも生き残れないっすわ」

 恵公「あぁん?じゃぁ、何処がいいのさ!」

 部下「梁国にしましょう、あそこなら隣に、それなりに国力がある秦国に近いので上手く行けば秦国の援助で帰国が叶います」

 恵公「イイネ!」

 てな訳で、恵公は梁国へ亡命しました。

 それから暫くして・・・

 意外と早く、晋国で「里克の乱」が発生し、里克さんが、奚斉・悼子を殺害し、晋国に国主が居ない事態が発生しました。

 里克さんは、「重耳様を呼び寄せよう!」と言って重耳に帰国して即位する様お願いするが、重耳は「帰ったら俺殺されるんじゃね?」と勘繰って丁重にお断りした。

 「じゃぁ、夷吾(恵公)様を即位させよう」と里克さんは、恵公に連絡をしました。

 恵公も重耳と同じで「俺帰ったら・・・」と心配して部下に相談した。

 部下曰く「秦の穆侯にお願いして護衛の兵隊を付けて帰国すればいいです!秦の穆侯にはお礼に「領土を割譲する」とでも言えば応じてくれますよ」

 恵公「え、領土やるの!マジで!!」

 部下「んなもん、後で理由つけて断ったらいいんです」

 恵公「それ・・・イイネ!!」

 と、明らかに詐欺する気満々で、恵公は秦の穆侯に「兵隊貸して」とお願いしに行く。

 秦の穆侯も「そっか、領土くれるか!それなら良いよ!(それにこいつ重耳より出来が悪いらしいし・・・馬鹿が国主になった方がこっちもやり易いわヒッヒッヒ・・・)」

・・・と、どっちもどっちな感じで取引が成立し、目出度く恵公は、秦国の護衛付きで帰国し、正式に国主に即位を果たした。

 まぁ、今後の展開からすれば・・・恵公側の方が上手だったかもなぁ・・・

 恵公は早速、援助をしてくれた秦の穆公へ約束した土地を譲渡しなければならないのだが、

 「いやぁ、俺は良いと思うんだけどね、周りがどうしても許してくれなくてさぁ・・・」とか小学生ばりの言い訳を駆使して、先の約束を反故にした。

 そして、次は恵公を晋国へ迎え入れた恩人であるはずの里克に対して、

 「お前は、先に国君を2人(奚斉・悼子)を殺し、大夫を1人(荀息)を殺した。お前の主君で有る事は大層難しい」と遠回しに「死ね」と言った。

 里克は、「はぁ、そうですか、でも私が居なければあなたは今の地位に居られませんでしたよ」と毒気づいて自殺しました。

 恵公は更に、七輿大夫と呼ばれる晋国で力を持った7人の大臣を悉く粛清しました。

 結局、恵公は自身が即位したことに協力した方々に恩を仇で返した事になります。
 
 彼の凄さはそれだけにとどまりません・・・

 ある年、晋国は未曽有の飢饉に襲われました。

 当然、今の国際情勢もそうですが、援助物資を各国へ要請するのですが、恵公が要請した先が面白い事に、先に約束を反故した秦国でありました。

 当然、秦国は大いに悩みます。

 「先ずは先の約束を果たしてもらってから援助しよう」

 「いやいや、むしろこの機に攻め込んでやろう」

 等々、当然そういった議論に発展しますが、

 結局の所、「恵公ムカつくけど、民は可哀想だもんな、援助しよう」と秦国は大人の対応で大量の援助物資を晋国へ送り込んだ。

 で、今度は秦国が飢饉にあい、「前に助けたからきっと・・・」と思い、晋国へ援助を要請しました。

 晋国が送ってきたのは恵公自身が率いる大量の軍隊でした・・・

 ひどぅいですねぇ・・・

 「まじかよあいつ!!」と激怒した秦の穆公は、迎撃に出ます。
 
 こうして開かれた会戦が「韓原の戦い」です。

 この戦いは、相当な激戦でかつ泥仕合だったようで、大将である秦の穆公が危うく捕まりそうになったり、する訳ですが、結局の所、馬車が走行不能になった晋の恵公の方が秦国の勇者たちに捕獲されて、秦国の勝利となりました。

 穆公は、散々してやってくれた恵公を戦勝の儀式の生贄にしようとした。(春秋時代は、結構こういう事やってます・・・)

 ただし、面白い事にここまで無礼を働いた恵公を何とか助けたいと考える臣下が多くおり、この者たちは、連行される恵公の後ろを黙ってついてきた。

 そして、穆公の妻(恵公の姉)は、喪服を着て子供たちと薪の積まれた高台に上って「弟を助けてくれないなら、ここで焼身自殺します」と言いだした。

流石に参った穆公は、部下と協議の上、恵公を帰国させる事にした。

 ただし、その代わりに恵公の息子(名前は圉)を娘の婿として秦国へ呼び寄せる事にした(事実上の人質)

 さて、手痛い敗北を喫した恵公ですが、転んでもただでは起きません。

 恵公は、部下をして国民に「俺は国と先祖を辱めてしまった・・・もう、君主でいられない・・・」と反省と辞職をほのめかした。

 それを聞いた晋の国民は、号泣し「何か私たちがお国の為に出来る事はありませんか!!」と言いだした。

 恵公は「あ、そう、じゃぁこれやるから協力してね」

 と打ち出した政策が「易田制」と「州兵制」である。

 見事な、やめるやめる詐欺と言うか・・・ 

 さて、上記の2政策ですが、「どんな政策だったのか?」と言うのが、悔しい事に「史記」にも「春秋左氏伝」にも記述されていないのです。

 しかし有りがたい事に今はネットサーフで色々調べる事が出来ます・・・しかし、これでも中々「晋国の州兵制・易田制」と言うのでは出てこないので、仕方ありません・・・

 他の「州兵制」「易田制」を参考にどんな政策だったか推察しますと・・・あくまで推察ですから・・・

 【晋国の易田制】
 従来の井田制だと、8戸で1つの耕作地を共同開発しそれを年貢として収めさせる。
 これ、「どっかの家がやるでしょ、俺の畑で手いっぱいだし」となりがちで、結局、真面目に税用の耕作地を耕す事はだんだんと無くなっていく。
 
 で、易田制は、「公田」を無くしそれぞれの家に「痩せてる土地なら多く」「肥えてる土地なら少な目」と耕地を与え、そこから得られた収入の何割かを税金とする方法と思われます。
 因みに「痩せてる土地なら多く与える」のは、休耕の必要があるからです。

 これにより、「善意で耕して貰った分を税収」とする極めて不確実な税制ではなく「生きる為に得る収入の一部を頂く」確実性の高い税制へ移行したのではないでしょうか。

 【晋の州兵制】
 従来の春秋時代の兵制は、「貴族階級」「城壁の中で生活している方々」を軍人として徴収していました。

 が、この時代の中国だって、人が皆が皆、城壁の中に住んでいる訳ではありません。

 城壁の外で集落を作って住んでいたり、山に住んでいたりなど、様々な生活体系をとっている方々がいらっしゃいます(こういう人々が、異民族扱いされ討伐されたりしたりしたのでは無いかと・・・)

簡潔に言いますが、こういった方々も軍人として徴兵する制度であったと思われます。

 当然、「徴兵対象を大幅に広げた」訳ですから、軍事力も急激に大きくなります。

 つまり、恵公は「従う側」からしたら受け入れがたい改革を演技一つで、国民側から喜んで従う様に仕向けてしまった訳です。すごいですね。

 で、恵公・・・このあと、年表でみるとやった事は、

 「自身及び息子の位を脅かす恐れがある兄の重耳に暗殺団を派遣する」くらいしか記述がなく、病没してしまいます。

 恵公の死後、簡単に書きますと、人質になっていた「圉」は、秦国を無断で脱出し、晋へ帰国し即位し「懐公」と後に呼ばれる様になります。

 で、またまた出し抜かれた秦の穆公は遂に堪忍袋が切れたみたいで、中華一周旅行をしていた重耳を招待し、重耳の後援者として晋国へ攻め込み、重耳を晋の指導者として即位させました。

 因みに、懐公(圉)は、しっかり始末されました。

 ※個人的には懐公に同情する事多々ありです。いずれ書きたいと思います。

〜私なりに、晋の恵公を考える〜

 この方は、どうも後に覇者となる兄貴の重耳(文公)の活躍がすさまじい事と、最後に残った重耳側が歴史を編纂した事もあるでしょうが、すこぶる評判が悪い。

 まぁ・・・「信義」を重んじる時代でもありますので、はっきり言って父親の献公もそうですが「信義の欠片もない」方は、悪く言われますし、正直私もこういった方とはお近づきにはなりたくはありません。

 「するする詐欺」し過ぎです。

 他人から受けた恩を仇で返し過ぎです。

 ただし、私は以下の2点は、為政者として評価されるべきだと思います。

 1.里克を始め、七輿大夫と呼ばれた力を持った貴族を一斉に粛清した。→あのまま放っておけば、きっと手をつけられないほど増長し、実権を奪われた事でしょう。

 2.だまして従わせたとはいえ、州兵制・易田制を始めた。→ これは、晋国の強大化に大きく貢献した事でしょう。因みに、父親の献公の時に軍は、上下の2軍でありましたが、重耳が覇者になる戦いを始めた時には、晋軍は、上中下の3軍を動員しておりました。
それに重耳はハッキリ言えば「内政何やった」っと言う記述が無いです。
てか、即位してすぐに外征を始めました。

明らかに、それを可能にした軍事力と経済力は、以上の2点の改革の成果でしょう。

つまり、後に「晋の文公」として春秋五覇の代表格に数えられる重耳は、父親の献公と弟の恵公が、えぐい事をしながらも国力・軍事力を急速に拡大させたのを、元手に覇者として中華に君臨するのである!

・・・と言うのが、私の持論ですが・・・

と、言う訳で

恵公、結構出来る子なんじゃね?と言う事がただ言いたいだけです。(笑)

春秋時代で多分一番有名な女性・・・驪姫(活躍期間:前672年-前651年)中国17人目
2015/01/23

かなり遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

今年もどうか宜しくお願いいたします。

執筆の方は本当に遅いもので恥じ入るばかりでございます。

さて、今回は初めて「女性」を主に取り上げてみます。

「女心もろくに解らないお前が女性を取り上げるだと?笑わせる」と言う知人からの声が聞こえてきそうですが、そこは触れないで欲しい所ではあります(苦笑)

さて、女心の解らない私ですが、頑張って「驪姫」と言う女性に焦点を当ててみたいと思います。

さて驪姫は、正確に言えば「驪戎出身の姫」と言う事ですので、正確な名前は判りません。

非常に残念ですが、仕方ないですね。

先ず驪戎は、晋国の周辺に住んでいた部族であり、中華の人々とは少々生活や文化の異なった部族であり、主に山岳地帯に住んでいたようです。

ですので、中華の方々には「異民族」として蔑視され討伐の対象となっていました。

日本で言ったら大和朝廷が蝦夷を迫害する様なものに近いかと思います。

さて、驪姫の出身である驪戎は、時の晋の指導者である「献公」に討伐され、驪姫とその妹を晋の献公へ引き渡したそうです。

事実上の誘拐というのか拉致というのか・・・褒められたものでは無いのは確かです。

そんでもって、献公は大いに二人を寵愛したそうな。

驪姫が献公の寵愛を受けて7年・・・驪姫は「奚斉」と言う男子を産む。

ここで疑問・・・寵愛受けている割に子供が出来るの遅くないか?
因みに、妹はこれより13年後に「卓子」と言う子供を産みます。

まさか・・・驪姉妹・・・さらわれた時・・・小さかったのでは・・・いや、まさか・・・

献公・・・義理の母(申生の母)に手を出すのに飽きたらず、幼女にまで・・・いや、流石にそれはねぇだろ・・・考えすぎですよね・・・

「奚斉」が産まれてから、献公は驪姫が可愛いあまり、既に後継者として認知されている申生を廃嫡して奚斉に後を継がせようと考え始めるらしいです。

奚斉が生まれて7年後、献公は驪姫を相手に「申生を廃嫡して奚斉を後継者にする」と提示した。

普通でしたら大喜びして献公へ媚びを売るものだが・・・驪姫は涙を流して「申生様は、国内の方も諸侯の方も認める立派な跡継ぎです、卑しい私の為にそんな事をするなら私は自殺いたします」と言って申生の廃嫡に反対した。

でも、驪姫は「本気でそんな事」を思っている訳ではありません。
 むしろ、「良い子」な申生を始末する事を企んでいます。
 さて、「申生を擁護しているフリ」をしている驪姫、様々な手段を用いて晋献公が申生を嫌いになるように仕向けます。
 その中でも割と面白いかなぁ、と思う逸話を少々。

1.驪姫はある日、着物に蜜を塗りたくって、申生を庭へ誘います。
  何も知らない申生は、「これも継母に対する親孝行」と思ってそれに付き合う。
  さて、暫くすると驪姫の着物についた蜜を求めて蜂が集まりだす。
  申生は親孝行者です、継母に怪我でもあったらと、自分の身を顧みず蜂と格闘戦を繰り広げたが・・・
  それを遠くからみた献公・・・
  「この野郎・・・俺の妻に・・・!!」

2.ある日、驪姫は献公と飲んでいる最中「申生様ってとても面白い方ですね」とニコニコしながら言った。
  献公「は?真面目過ぎるあいつのどこが面白いんよ?」と聞き返す。
  驪姫「だって、申生様、「父上が死んだら貴女を妻に迎えたい」ですって、冗談ぶっ飛びすぎでしょ、」と・・・
  献公からしたらこの冗談、心底面白くない。
  過去に実の父親の妻を寝取って申生を産ませているのだから・・・

  そうやって、献公の申生への信頼を見事に滅茶苦茶に出来たのを見極めて最後の仕上げに掛かる。

3. ある日、驪姫は申生に「私は先日、お亡くなりになった貴方の母親(斉姜)の夢を見ました。申生様はお母様の祭祀を執り行い供物を献公様に奉り下さい。」と言った。
   さてしつこいですが親孝行者な申生は早速母親の祭祀を行い、供物を献公の元へ送った。
   その時、献公は狩りに出かけており供物は、宮中に保管された。
   さて、驪姫その供物に毒薬をしっかり仕込みました。
   2日後狩りから帰ってきた献公・・・申生からの供物を早速食べようとした所、驪姫はそれを止めて飲み物をを地面に垂らしたら土が盛り上がった。
   ワンちゃんに食べ物をあげたらワンちゃん死んじゃった。
   従者に食わせたら従者も死んじゃった・・・
   で、ビックリした献公に驪姫のとどめの一言。
   「私は、申生様は立派な方だと信じていたのに・・・お父上(献公)がお亡くなりになるのも待てないなんて・・・」
   後は、誰でも想像がつきます、申生は「親殺し」の罪を着せられてしまい、申生は自殺に追い込まれます。
   
 さらに驪姫の追い打ち

 「弟君の重耳・夷吾もこの企みに加担していたみたいです」と

 二人は、他国に亡命した。

 これで、献公によって強大化した晋国は「優秀」と謳われた三人の後継者候補を晋国から排除されてしまった。

 当然、残された驪姫の子の奚斉が献公の後を継いで晋の指導者となった。

 この状況に憤慨したのが、申生・重耳・夷吾を支持していた臣民・・・と、里克さん。

 里克さん、三公子の臣民を焚き付けて兵を挙げて、葬儀中の奚斉を殺害し、そのまま奚斉の弟の卓子も殺害した。
 そうして、驪姫と妹が産んだ驪戎の血を引く後継者はあえなく若い命を散らしてしまいました。
 
 おそらく、この際に驪姫と妹も殺害されたと思われますが、記録に「殺された」が載っていないので・・・
 
 ただ、確かなのはこの事件を境に驪姫の事跡が出てこなくなった・・・と言う事です。

〜驪姫について私なりに考える〜

 驪姫と言う女性一人によって、強大国晋国は、再度弱体化したと言う話もどこかで見ました。
 若干、私は「晋国の弱体化」には疑問ですが・・・
 そして驪姫はそこら辺の男性共顔負けの頭の良さが際立ちます。

 普通、他の公子を追い落として自身の子供を後継者にしようとするなら大抵は、直接他公子の悪口を言って自身の子供を持ち上げる事をしがちですが・・・

 驪姫は、真逆の事をしました。

 人を騙して殺し、国を騙して滅ぼす、そういった詐欺まがいな事を好む献公が疑い深いある意味危険な男性で有る事を知っているからだと思います。

 おそらく驪姫がスタンダードな方法をとっていたなら・・・驪姫は献公に即座に殺されていたのではないのしょうか?

ただ、この頭の良さと事件により、驪姫は「とてつもない陰湿な悪女」として認識される事になりました。

 えぇ、私も会社などでこの類の方に出会ったら・・・多分、「この悪いやつめ」とか思うでしょう。

 ただ、そこは天邪鬼な私、そうストレートに考えません。
 一つ注目したいのは、「驪姫は妹共々一族を攻められ拉致同様に晋国へ連れてこられた」と言う事です。

 もし驪姫が一族の仇をとろうとしたならば・・・

 当時の女性が取れる方法は上記の方法しか無かったのではないでしょうか?

 ちょっとそんな風に敢えて好意的にとってみました。
 
 因みにお亡くなりになった大作家の陳舜臣さんが書かれた十八史略では、そんな解釈の驪姫でした。

 更に因みですが「曽子」だか何かに「驪姫はさらわれた時は悔しくて仕方なかったが、毎日贅沢な暮らしをしている内に恨みも何も薄れていった」・・・と

 さて皆様は驪姫と言う女性をどの様に捉えますか?


※私、女性の絵が描けませんでした・・・

俊水様へ
2014/12/10


 先日、大家様のお力により、文豪であらせられます、俊水様と言葉を・・・いや、文章を交わらす栄誉に与れました事にこの場を借りて御礼申し上げます。

 いや、本当に「読みずらい」「分かりづらい」私の文章を読んでいただけているだけで、嬉しいのに、アドバイスまで頂けました。

 極めつけに、「私」のコラムまで・・・嬉しくて穴という穴から水分が出てきそうです。

 さて、俊水様のコラムで書かれている中では、私は「かなり古代中国史に詳しい」人間であると、かなりハードルを上げられてしまい、冬なのに汗が止まりませんが、「好き」なのは事実ではありますので、上げられてしまったハードル・・・いつかきっと、乗り越えられる様に、一層努力しようと身が引き締まる思いです。

 そのまま、膨れ始めた腹をはじめだらしなくなってしまった肉体も引き締まれば良いのですが・・・

 また、私はお腹が空きすぎて自身を食べてしまうような欲張りな人間ですので、文豪であらせられます俊水様の文章も時には拝借させていただければ幸いです。

 「あれ、このフレーズどこかで・・・」と思いましたらかなりの確率で拝借です・・・どうか海のような寛大な心でお許しいただければと思います。


 最後に、有り難い励ましのお言葉を頂きながらも、「お返しのコラム」を立ち上げる事に時間が掛かってしまい誠に申し訳ありませんでした。

 どうも・・・足踏みするというか、物事を始めるのに臆病でいけません・・・思い立ったら吉日と言いますのに・・・

 

結局どうしたら良かったのだろうか?晋の申生(活躍期間:前665年-前656年)中国16人目
2014/11/27

 どうにもこうにも、最近「晋の献公」を書いたので、さっさと重耳に進もうと思ってはいますが・・・

 どうも「まだ早い」気がするのです。

 と言うより「申生」の事を扱ってみたくなって来たら、どんどんと妄想やらなんやらが膨らんできて、隙あれば彼のことばかり考えてしまっております。

 ・・・べ・・・別に君の事なんて、好きじゃないんだからね!!

 しょうもない冗談はさておき、先の晋の献公で「優秀で親孝行でありながら迫害され自殺まで追いやられた悲劇の太子」であります申生を取り上げ、

 いつも以上に「妄想」を膨らませて、「彼はどうすれば一番良かったのか?」を考察してみたいと思います。

 前回で語った通り「歴史にifは無い」のではありますが、敢えてその禁忌を破ってみたいと思います。

 さて、前にも触れましたが、「申生」は、晋の献公のお父上であらせられます晋の武公のお妾さんと献公との間に生まれた子供です。

 姓は「姫」名は「申生」で(キキンセイ)と呼ぶのが正しいのですが、めんどうなので私は「申生」と呼びます。

 因みに申生には、お姉さんがいます。後に秦国の屈指の名君であります「穆公」のお嫁さんになります。

 と・・・いう事は、出来の悪いスケベなビデオにありがちなシチュエーションで出来た子供は、お姉さんの方だろうかと思いますが、そういう下種な妄想は、端に置いておきます。

 母親の方は、申生より早く他界したようです。(後に驪姫がそんな様な発言してますので)

 さて件の申生ですが、評判としては「優秀で親孝行」と言うのが世間では良く知られています。

 それでいて立ち位置は「長男」

 一般論で言えば「何の問題も無く後継者になれる」と言えるのですが・・・

 問題なのが、毒婦として有名な「驪姫」の存在であります。

 彼女は、献公の部下に贈り物をして次の様に提案させます。

 「曲沃という土地は、先祖が発祥した重要な都市です。そして蒲・屈は、北方の白狄を抑える為に必要不可欠な都市です。この3都市にそれぞれ信頼できる息子達を送って治めさせれば晋国は、さらなる発展を見込めるかと思います。」と・・・

 献公「お、それイイネ!」と賛同し、

 申生に曲沃を重耳に蒲を夷吾に屈を与え統治させた。

 因みに、「曲沃」は、武公が本家の晋を滅ぼすまでの、首都であり、肥沃な土地柄で「第2の首都」と言ってもいいと思います。

 しばらくして、献公は今までの軍(12,500人)の他にもう一つ軍を創設し、晋国の軍隊編成を「上軍」「下軍」とした。

 「上軍」は献公が率い、「下軍」を申生が率いる様にした。

 重要な都市を任され、晋国の全軍の半分の指揮権を与えられた申生

 普通なら「これだけ信頼されているのだから、後継者は決まったものだ」と思うものですが・・・

 献公の知恵袋と言っても良い士爲が、申生に苦言を呈する。

 士爲「貴方は、早い内に最高の位にお着きになりました、つまりこれ以上にはなれないと言う事です。罪を得てしまわない内に他国へ亡命なさるべきです。」と・・・

 「なに言っているの?この人?」と普通は思うと思います。

 申生もこの言葉は信じられなかったのか、聞き流してしまいます。

 これが、当たるのだから・・・士爲と言うオッサン、まじ凄いよなぁ・・・

 そして、申生は献公の命令で、とある氏族を攻める事になった。

 それを聞いた里克は、献公に尋ねた。

 里克「太子(跡継ぎ)は出陣させない方がいいですよ、なにかあったら大変です」と・・・

 そしたら献公かくのたまわった

 献公「誰が申生が跡継ぎだと言った!まだ決めてねぇよ!バカヤロー!!」
 
 里克「・・・」

 里克は、その足で申生に謁見した。

 申生は、以前の士爲の言葉が引っ掛かっていたのか、

 申生「私は・・・廃されるのだろうか」と言った。

 里克「はい、そうですね」とも言えず、

 「貴方は今まで立派に曲沃を治めて下軍も立派に率いてきたではありませんか、廃される理由が有りません。貴方は太子になれるか心配せず、謙虚に人に恨まれるような事をしなければ大丈夫です」と言って去った。

 申生、気を取り直して献公の命令に従い、出陣の準備をし、いざ出陣と言う時に、献公から、半身別々の色の服と一部が欠けた飾り物が届いた。(当時の風習では、洒落にならないほど、縁起の悪いもの)

 その服を着、その装飾品を付けて出て来た申生を迎えた部下たちは、その姿を見て口々に言った。

 ある部下は「申生様、貴方は曲沃の土地を任され下軍も任されています。これ以上の信頼がありましょうか、頑張って戦果を挙げれば、きっと献公様も貴方を大事に思うでしょう」と励まし

 ある部下は「こんな、縁起の悪い服装をさせるとは・・・献公は貴方に負けて死ねと言うのか・・・」と嘆き

 ある部下は「こんな事では勝っても負けてもろくな事にはならない、申生様逃げましょう!」と亡命を勧めた。

 そして孤突(コトツ)と言う申生の部下は、申生を逃がそうと申生が乗った馬車を鞭うち走らせようとしたところ、羊舌大夫(大夫のヨウゼツさん)が、それを止めて、

 「それはいけない!命令に背くのは不孝、責任を放棄するのは不忠、たとえ父親の冷たさが解っても、不孝・不忠は選んではいけません、貴方はここで死になさい」と言った。

 申生は、もうヤケクソな気分だったのでしょう、早々に敵地に行って戦おうと言い出します。

 孤突は、「いけません、戦で身を危うくして罪を被せられるくらいなら、孝を尽くし、民を安んじる事に励みなさい!(周りの支持を増やせば簡単に手を出せなくなる・・・と言う意味だと思います)」と強く言った。

 申生は、それで落ち着いたのか、かなり縁起の悪い格好で戦地へ赴き、見事に敵を蹴散らして帰還した。

 何とか、戦地で没する事は無かった申生でしたが、また時が経ち、今度は驪姫に嵌められて「献公を暗殺しようとした」と言う嫌疑をかけられてしまいます。

 申生は危機一髪で、曲沃へ逃れた。
 
因みに、教育係りの杜原款(トゲンカン)は捕まり処刑されました。

 遂に討伐軍が来るのを待つ身になった申生、部下は申生を心配して色々進言する。

 部下「どうして申し開きしないのですか?貴方を嵌めたのは驪姫だってみんなが知っているでしょうに」

 申生「父は、驪姫がいなければ、安眠も出来ず食事も満足に満足されぬ状態だ、確かに私が申し開きをすれば、事が明らかになり驪姫は処罰されるだろう、だが私は父を悲しませる事は出来ない・・・」

 部下「ならば、まだ間に合います、亡命しましょう。」

 申生「私には今、【親を殺そうとした】汚名が付いている、どこの国も私の様な者を受け入れてはくれないだろう」

 そうして、申生は自ら命を絶った・・・

 申生の死後、「申生と共犯していた」と疑いを掛けられた弟の重耳と夷吾は、各々の居城へ逃げた後、他国へ亡命し、献公の死後、驪姫の子供の奚斉が即位したが、それを快く思っていなかった里克等が兵を挙げ、奚斉を殺し、亡命していた夷吾を即位させました。

 そして夷吾は、申生を改葬し申生の妻を側室とした。

 〜私なりに申生で妄想する〜

 この方、現代でも結構人気ありますね、批判する方は今の所「見た事無い」です。
 単に私の勉強不足からなのかもしれませんが・・・

 で、きっと誰もが「申生が無事に献公の後を継いで即位していたらどうなったか・・・?」と言う妄想と「申生は、どうやったら生き残れたのだろうか?」という妄想をするのではないかと思うのです。

 と、いう訳で上記2件を妄想します。
 何度も言いますが「歴史にifは無い」って事を百も承知で妄想します。

 ではでは・・・

 1.申生が無事に即位していたら晋国はどうなった?

 【ハッピー的な妄想】
  先ず、国内で言うなら「○○派」と言う派閥に所属していないと思われる、士爲の様な方にまで、心配されるくらいに人望が高い事、親に迫害されても親の事を想い続ける優しさがある事から、臣下から国民にまで、支持される「人気者君主」となる事でしょう。
 そして、他人を思いやるその優しさから、厳しさで統治してきた献公とは逆に「徳の高い政治」を行う事で臣民を幸せにしようと励むことでしょう。それでいて「曲沃」を無事に統治している実績がありますから、先ずは国内の政治に関しては心配ないのでは無いでしょうか?
 
 対外的には、軍事力は献公期に拡大しているので、攻められる心配は少ない。そして、母親は斉の桓公の親戚なので、斉国とも友好的に付き合える素地が有り。
 更に姉貴が秦の穆公に嫁いでいるので、こちらも安心。
 西は秦と結び、東は斉と結び、北は狄族の母親を持つ重耳・夷吾に守らせ、対するは「楚」のみと成り得ます。
 「覇者」と言うより、「王者」として中華に一種の暖かい秩序をもたらしたかもしれません。


 【ナーバス的に妄想】
 先ず、上に立つ人が「臣下から人気がある」と言う事は、「この人の為に尽くしたい」と思われて人気があると言うより「こいつなら、やりたい放題できるんじゃね?」と思われて支持されている・・・と言う場合が結構多い。
 そして、父親や継母に迫害されても「受け身」なだけの申生は悪く言えば「大のお人好し」なだけである。

 以上から、彼が即位したなら、国内からも対外的にも「嘗められて、食い尽くされる」そして晋国滅亡か・・・

 私は、以上の2点を考えてみました。個人的にはハッピー側ですが・・・

 さて次の妄想
 「申生はどうしたら生き残れたか?」です。

 【士爲が進言した時に「そうですね」と言ってささっと他国に亡命する。】
   この時には「良い噂しか無い」状態なので、どこの国でも受け入れられた事でしょう。それにこの時期は斉の桓公が元気いっぱいなので、案外、斉の桓公の後援で国に帰って無事に即位できたかも・・・

 【曲沃の経済力・下軍を率いてる軍事力を背景に兵を挙げ、楚の穆王の様に献公・驪姫・奚斉を皆殺しにする。】
 多分、即位するまでは上手く行くことでしょう。
 しかし、上記3名の内一人でも逃したなら・・・
 斉の桓公を始め諸侯が「親不孝者を討伐しよう」を名目に晋国を侵略する事でしょう。
 
 若しくは「重耳」「夷吾」のいずれかが、「申生様がそんな人だとは思わなかった」と失望した臣民を糾合して兵を挙げてしまうかも。
 
 あまり、お勧めではないかも・・・

 【「驪姫が悪いねん」と臣下や重耳・夷吾と協力して「驪姫及び献公不信任案」を提出する。】
  
  多分、献公ショック死するな・・・で、驪姫も奚斉も失脚か殺害される事だろう。

 で、申生も無事に即位できる事でしょう。

 ただし、献公が意地になった場合、内乱でしょうな、
 そこに諸侯は「晋国の内乱を治め晋国の民を救う」とか言って侵略を始める。
 
 そんな所でしょうか。

 結構、選択肢はあるものです。

 やっぱり、士爲が進言した時に亡命するのが一番良さそうなものですが・・・それでも一歩間違えれば諸侯の介入を招き晋国の臣民は塗炭の苦しみを味わう可能性があるわけで・・・

 結局の所、孤突の進言にもありましたが「親を大事に、民を大事に」を心掛けてきた「心優しい」申生は、「自分が生き残ろうと我を通せば、親を傷つけ・民を苦しめる」と心を痛めていたのではないでしょうか、

 それ故に「誰がなんと言おうと、自分が取れる選択肢は一つしかない」なのではないでしょうか、それが申生を申生たらしめるものではないでしょうか、

 羊舌大夫の「ここで死ね」発言は、読者である私からみれば「なんちゅうこと言うねん、お前・・・驪姫の回し者か!!」と憤慨する所ですが、

 申生にとってはどうだったのでしょう、

 案外、その一言に大いに同意していたのかもしれません。

 最後に、少し申生の人気度を表す逸話を一つ。

 申生が死んで、なんやかんやが一通り片付いて夷吾が即位し暫く経った頃、申生の部下だった孤突は、申生が治めていた曲沃の町を散策していた。

 しばらくすると、目の前に懐かしい顔があった。

 なんと目の前に申生が立っているではないか・・・!
 
 申生は、馬車に乗り孤突を促して馬車を御させた。

 孤突は、往時を思いだし鞭を振るう。

 そんな孤突に申生は、声を掛ける。

 「夷吾は無礼な弟だ、私は奴に晋国を任せる訳にはいかない、晋国をまるごと隣の秦国に与えるように天帝にお願いした」

 孤突は、申生に諌めた

 「お怒りはごもっともです、しかし晋国の民はどうなりますか、何の罪もない民たちが他国に占領されることで苦しむのは、あまりにもむごいと思いませんか?それに、晋国が無くなるという事は、貴方の祭祀も途絶えるという事ですよ」と

 申生「そなたの言う通りだ、夷吾は憎いが、民を苦しめるのは間違いであった、私はもう一度天帝に話をしてみよう、7日後、曲沃の西のはずれに巫がいるので、巫より私の伝言を受け取るがいい」

 と言って申生は、ふっ消えた。

 孤突は7日後に曲沃の西はずれに行ってみると、たしかに巫が立っており、申生の伝言を孤突に伝えた。

 「天帝と相談の上、罰は夷吾にのみ与える事にした、いずれ夷吾は韓の地で敗北するだろう」と

 後日、夷吾は秦国と韓原の戦いで敗北し捕虜となった。

 と言う話です、勿論、幽霊など現れるはずもないのですが、こういった話が出るほど、申生が晋国で懐かしがられ同情されていたという事が伺えると、私は思います。

 そして、夷吾が申生を改葬し申生の妻を側室にした事が、いい加減な改葬をしたのかどうか知りませんが、「申生を慕っていた方々の怒りを買った」とも見れます。
 


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