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北の山からこんにちは ?

 来場された団塊世代のみなさま、若いもんの話も真面目に聞いてくださいよ〜。

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とりあえず管仲に聞けや・・・斉の桓公(在位:前685年-前643年)中国6人目
2014/04/21

 正直、このお方を書く気は、全く無かった・・・何故かと言うと、誰もが春秋戦国時代を扱うなら絶対に外さない人物だから別に私が書く必要もないかなぁ・・・てか、横山光輝氏の「史記」が一番わかり易く書かれているから良いかなぁ・・・って思っていたので・・・
 その代わりに、斉の桓公を支えた名宰相の管仲に焦点を当てようかと思っていたからです。
 で、早速、管仲の記述を始めたのですが・・・あとちょっとで完成と言うところで誤ってデリートしてしまったのです。
 小一時間ほど、ショックで悶えておりましたが、ある事に気づきました。

 「きっと、天におわします管仲様が、主君を差し置いて自身を書かれる事にお怒りになったに違いない」・・・と(笑)

 そして少し時間をおいて考えると、やっぱり管仲を書くにしても斉の桓公は外せないなぁ・・・と思い直したので、斉の桓公を私なりに書きたいと思います。

 しょうもない前置きというか言い訳をうだうだと続けましたが、遂にこの時代を扱うに当たって「有名人」を扱う事になるので、少々ビビッておりますが、やってみます。

 古代中国史春秋時代に「春秋5覇」という言葉があります。「春秋時代に諸侯のリーダーとして君臨した覇者が5人いました」そんな意味であり、誰がその5人の覇者か?と言うと、挙げる方の好みにより結構バラバラでなんですが、今回書かせてもらう斉の桓公は、必ず覇者として数えられます。

と、言うか「最初の覇者」と一般的に言われています。

そんな斉の桓公、名前は「姜小白(キョウショウハク)」と言い、先に扱った斉の襄公の弟です。

あの襄公のご乱行ぶりを見て、「俺、下手したら殺されるんじゃね?」とビビッて【キョ国(草冠に呂)】に亡命する所から、彼は歴史に現れる。

さて、彼が亡命して暫く後に襄公が従兄弟の公孫無知に殺され、公孫無知も部下に殺される事態が起こり、斉国に君主がいなくなってしまった。

そこで、斉国の大臣どもは、襄公の弟の姜小白(桓公)を君主に迎えようとするグループと襄公のもう一人の弟で魯国に亡命していた「姜糾(キョウキュウ)」を君主に迎えようとするグループに分かれてしまい、「先に斉国に帰った方を君主にしよう」と言うことになった。

さて、君主の座を巡って姜小白と姜糾のレースが始まった、果たして先に斉国に帰国するのは、果たしてどっちか・・・?

そんな時に、姜糾の部下の管仲(カンチュウ)が裏技を思いつく。

「魯国から兵隊借りて、先回りさせて姜小白を暗殺しちゃえば、レースなんかしなくっても確実に勝てるんじゃね」・・・と。

そんな訳で、管仲と魯国の兵は、先回りして姜小白の一行を待ち伏せし・・・姜小白が、その道を通ったその時、矢を放った所、見事に姜小白に命中した・・・

が、実はその矢は姜小白のベルトの金具に当たっており彼は無傷であったのです。

ただ、姜小白、こういう時に知恵の巡りが良いみたいで、「やった、俺は運が良いぜ」とか騒いだりせず、逆に「ぐあぁ・・・」と突っ伏して死んだふりをした。
そして、駆け寄った部下にひそひそ声で指示を出し、葬儀屋へ駈け込ませ、棺を用意させ、その中に入って斉国に向かった。

それを見ていた管仲は、姜小白が死亡したと確信し姜糾と合流し余裕ぶっこいて斉国へ向かった。

が・・・彼等は、帰国の最中に「姜小白が先に斉国に帰国し斉公として即位した」と報告を聞き「おいおい、死んだんじゃねぇのかよ・・・なに?あれは死んだふりで棺桶から飛び出しただと・・・騙されたぜ」と歯ぎしりイッパイで魯国へ舞い戻った。

 さて、斉の桓公として即位した姜小白は、後の憂いを除く為に、魯国へ攻め込み大勝した上で、魯の荘公(あの桓公と文姜の子)へ
「斉国は姜糾とその部下の管仲を殺さなければいけません、けど・・・姜糾は私の弟・・・可哀想で自分で殺せないので魯国の方で殺して下さい、しかし管仲は、この手でぶっ殺さないと気が済まないので引き渡して下さい、それがかなえば斉国は撤退します」と伝えた。

魯の荘公は、泣く泣く姜糾を殺し、管仲を斉国へ引き渡した。

さて、管仲・・・殺されるかと思われたが・・・斉の桓公は、管仲を殺すつもりは毛頭無く面接の上、斉国の宰相(サイショウ)に任命した。

宰相・・・日本で言ったら関白か総理大臣あたりだろうか・・・とにかく、家臣の中で一番偉い役職で君主の代わりに政治をみる役職です。

中途採用した社員にいきなり役員に任命するようなもんかなぁ・・・かなり思い切った人事です。

これには少々裏事情がございますが、それは次回に書く「管仲」で細かく取り上げたいです。

宰相に任じられた管仲は、その才能をいかんなく発揮して斉国を一大強国に育てあげる事に成功した。

斉の桓公は、その富と軍事力を背景に中華に進出し、

時に、不道徳な事をした国を懲らしめ、時に助けを求める国を助け、時には滅ぼされた国の民の為に城郭を作ってあげて国を再興させた。

諸侯は「斉の桓公の下についていれば守ってくれる」と絶大な信頼を寄せ、遂に会合の末、斉の桓公を覇者(盟主)として認め斉国に従った。

 ここまでだといかにも斉の桓公は万能で凄い男なイメージを与えかねないが、実はこの男・・・なかなかいい加減と言うか、子供っぽいと言うか、そんな「覇者」とはかけ離れた逸話が多いので、少々取り上げたい。

1.斉国と魯国は基本的に仲が悪く度々戦争をしますが、ある会戦で斉国は魯国に大勝し領土を奪った。
その後、魯国の荘公と和睦の会合が行われ、和睦の条件として斉国が奪った領土を正式に斉国の領土と認めさせる調印をさせるその時・・・魯の将軍が飛び出し桓公に刃を突き付け「そんな調印させるかボケ!!魯の領土を返す調印しろや!」と脅した。
桓公はちびりそうになりながらも、渋々魯国に奪った領土を返還する調印をした、してしまった・・・
調印が終わり帰国した桓公はプリプリ怒り「もう一回、魯国を攻めるぞ!」と息巻いたが、そこで管仲が一言、
「いけません、脅されたとは言え約束は約束です、それを守ってこそ大人の対応と言うものです」と
桓公「それじゃ、なめられるんじゃないの?」と不審に思っただろうが、管仲が言うなら間違いないか・・・とその言葉に従う事にした。
そしたら、その話を聞いた諸侯は、斉の桓公は立派な人物だと褒め称えた。

2.ある日、斉国より北方の燕国が、異民族の山戎に攻められ、斉に助けを請うた。
斉の桓公は、その求めに応じ出陣し山戎を撃退し燕国を救った。
 燕国の君主は、感謝しまくりで斉の桓公の帰国をいつまでも見送りを続けた、桓公も悪い気はしなかったので、いつまでも燕公と一緒に帰国の途についた。
 そしてやっちまった・・・燕公を斉国の領土内に入れてしまったのです。
 当時、自分の領土まで諸侯を見送らせる事が出来るのは周の王様だけであると言うルールがあったので、これは「俺は周王と同等だぜ」とかなり僭越な事を言ってしまったに等しい行為である。
 こんな事では、諸侯は斉国に失望してしまう・・・
 そこで、また管仲が出てくる、
管仲「仕方ないですね、いまここに国境線を引いて、「ここからが斉国」って事にしましょう」
桓公「まじか・・・助けた上に領土もあげちゃうの?」
管仲「覇者を目指す者、領土に拘ることなく譲りあいの精神を見せつけ諸侯の手本にならねばなりませんよ」
 これも渋々なんだろうけど、管仲の進言に従った事で斉の桓公は、「僭越な奴」と罵られるピンチから「なんと懐の深い人物だ」と更に名声を得る事になった。

3.ある日、桓公は側室の蔡姫(蔡国出身の姫)と一緒に舟遊びをした(今でも、恋人どうしがボートに乗ってますね・・・あんな感じでしょうか・・・羨ましい)
さて、この蔡姫が中々お茶目な女の子で、わざと船を揺らして桓公をビビらせた。

桓公「おちるって!マジで止めて!」

蔡姫は、面白がって更に船を揺らせた・・・

そしたら桓公、今度はマジギレして、「この馬鹿!お前なんか実家帰れや!」←多分、きっと半泣きだったんじゃないかなぁ・・・(笑)

蔡姫も「覇者と呼ばれる男がその程度で起こるなんてかっこ悪!いわれなくてもこちらから帰ってやるわ!」
と言ったかは知りませんが、逆ギレして実家の蔡国に本当に帰ってしまった。

暫く経って・・・桓公は、蔡姫が恋しくなってきて、蔡国に使いを出して「帰ってこーい」と言った。

しかし・・・蔡姫はとっくに他の男と再婚してしまっていた。

うわぁ・・・やるせねぇ・・・私だったら鬱になれる・・・

とりあえず、桓公は鬱にはならずに烈火のごとく怒り狂った。
そして、蔡国へ攻め込んでしまった・・・

これは・・・今まで築き上げてきた諸侯の信頼を失うには十分過ぎる・・・

しかし管仲は、こんな危機もプラスに変える素晴らしい知恵を持っていた。

管仲「その兵隊を楚国に向けましょう」と・・・

桓公「楚?なんで?あの国は今回の件とは関係ないじゃん」

管仲「蔡国は、楚国の従属国でしょうが・・・」

桓公「は?だから?」

管仲「ですから!楚国は昔から周王朝を無視してあちこちの諸侯を滅ぼして併呑してるでしょ、それを討伐して周王朝に従えさせれば、蔡国攻めは、その為の作戦の一環と理解してもらえるでしょ!」

桓公「そっかぁ、管仲は本当に頭がいいなぁ」

管仲「もう・・・しっかりしてくださいよ・・・」

そんな会話があったか知らないが、管仲の進言に従って斉の桓公は、楚国に兵を向けて威圧し、楚国が周王朝へ貢物を送り臣従させる事に成功し、諸侯から絶大な賞賛を浴びた。

ただ最後はやっぱりやっちゃった・・・
楚国の屈完(クツカン)と言う貴族が和睦の使者として斉国の陣営を訪ねた際、桓公は屈完と一緒に移動しながら、自国の軍隊を見せて

桓公「どうだぁ、うちの兵隊強そうでしょ、イッパイいるでしょ凄いでしょ」と自慢しだした。

そしたら屈完、かなりイラっとしたのでしょう・・・こう切り返した。

屈完「・・・あなたが、道徳を重視し事に臨むなら、我が楚国はかなうはずもありませんので、臣従いたしましょう、ただし今みたいに軍隊を背景に我がままを働くようなら、我が楚国は国を挙げて徹底抗戦します、きっと我が国を亡ぼす事は出来ないでしょう」

と、やりこめられてしまった・・・

4.斉の家臣の一人が、ある事案に関して桓公に相談を持ち掛けた。

家臣「あの、この件ですが・・・」

桓公「ん?それは管仲に聞いて」

家臣「あと、この件も・・・」

桓公「あぁ、その件も管仲に聞いて」

あまりに、管仲に振る桓公に家臣はあきれ果て嫌味を言った。
家臣「・・・君主とは楽な仕事ですね」
・・・と、

そしたら桓公はこう切り返した。
桓公「なにを言う、俺は管仲を手に入れるまで、スゲー苦労したんだぞ、だから今は楽したって良いじゃないか」

・・・と、個人的にはこの話が一番好きです。

他にも、覇者となった自信から驕り高ぶった発言して管仲に怒られたりとする話もあったりします。
個人的には、覇者として立派な桓公より、こういった人間っぽい感じの桓公のお話が好きです。

管仲のおかげで順風満帆な斉の桓公ですが、子供が沢山いた事で誰を後継者にするか、少々迷った。
これも管仲と相談の上、後継者を決め宋国の襄公に後援を頼んでこの件は一件落着・・・と行かなかった。

後継者選びまでは良かったが、管仲の後継者を選ぶのは失敗した。
と、言うのも管仲が「この人たちは邪悪な性分ですので近づけてはいけない」と忠告したのにも関わらず、
管仲の死後、その邪悪な者達を傍らに置き権力を与えてしまった。

そして桓公が死没した後・・・

この邪悪な者共は、桓公と管仲が後継者に決めた君主を追い出し、桓公の子供の内で自身の意のままになる者を君主につけやりたい放題を行った。

その結果、他の子供たちが「あいつが君主になる位なら俺が君主になってやる」とお互いに兵を挙げ後継者争いを始めてしまった。

結局、先に追いやられた正式な後継者が、宋国の援助を
得て君主に返り咲いたが、その頃には斉国は内乱で荒廃してしまい、斉国は一大強大国から、それなりの国になってしまい・・・
「覇者」の資格は他の国にとられてしまう事になる。
そして極めつけは、内乱中誰も桓公を弔う事が出来なかったので、内乱が終わった頃には桓公の死体は・・・・大変な事になってしまっていた。

〜私なりに斉の桓公を考える〜

先ず、特に強大な国で即位したわけでもないが、管仲を抜擢することで中華の覇者となった斉の桓公は、残っているエピソードから判るように、うっかりミスしたり、感情のままに怒ったりするといった様に大変失礼だが・・・特に頭が良いとかそういった特別優れた人物とは言えない様に感じます。

しかし、彼が他人と比べて優れていた事は、【素直さ】だと私は思います。
元々敵であった管仲に政治を任せろと推薦した部下の声に素直に従って管仲を宰相に任命したこと。
耳の痛い事ややりたくない事などに対しても管仲が「こうしなさい」と言った事を渋々であってもちゃんと行う素直さ。
若しくは「正しい言葉を聞きわける能力」であったかもしれません。

これは、自身が優れていなくても、優れた人物を見極め仕事を任せる事で成功出来る良い事例かと思います。

ただ、最後はその素直さが十分に発揮する事が出来なかった事で内乱を招く事になったのは残念です。

ただ、結局それも彼の死後の話なので、彼自身は死ぬ間際まで順風満帆で楽しく過ごしたのかもと考えると、「まぁ、それも良い人生かなぁ」と思ったりもします。

そして、桓公と管仲で行った「覇者になって諸侯を率いる」と言う概念は、これからずっと中華を支配し続け様々な「覇者」を出現させる事になると考えれば、やっぱり斉の桓公は、春秋時代を扱うにあたって絶対に外せないお方だなぁ・・・としみじみ思います。

この男変態につき・・・斉の襄公(在位:前697年-前686年)中国5人目
2014/04/06

4月に入り春を体いっぱいに感じる昨今・・・
冬の寒さに身を潜めていた草木や動物共も活発に活動を始める事でしょう。
そして、冬の寒さに部屋に引き籠っていた「変態ども」も春の陽気に導かれ屋外へ活動範囲を広げる事でしょう・・・

時期外れのロングコートを羽織って・・・

今回は、種類は違えど「変態」と私が思っている方を取り上げようと思います。

私事で恐縮ですが、私のラッキーナンバーである「5」人目に、「変態」を扱う事になるとは・・・立派な方を取り上げたかったなぁ・・・

前置きがしょうもなくなりましたが、今回の古代中国史における「気になる人物」の5人目は、
斉国の襄公(名前は、姜諸兒(キョウショゲイ))です。

斉国は、周が殷を滅ぼした際に活躍した「太公望」が周の武王より現在の山東省に封じられた国です。

中国の歴史を知らなくても一度は名前を聞いたことがある方が多い、釣り人≒ニート(?)≒大軍師で有名な「太公望」の子孫が斉の襄公であります。

斉の襄公は、名君として各国に知られた「僖公(キコウ)」の長子である。
彼が即位する前・・・父親の僖公は、仲が良かった弟の夷仲年が死んでしまったので残された夷仲年の忘れ形見の「無知(なんちゅう名前つけてんねん!!)」を自身の子供同様に扱い可愛がった。
襄公は、それが面白くなかった上にどうも無知とは仲が悪かった様で、父が死に即位した途端に、無知を迫害し彼の俸禄を引き下げた。

次に、魯の桓公夫妻が斉を訪れたので、もてなすが・・・その裏で魯桓公の妻と密通する。
で、この魯桓公の妻(史書では文姜(ブンキョウ)と呼ばれている)は、襄公の実の妹なのです・・・

いやいや、お前ら兄妹で何してるの!?

遡る事になるが、この二人は妹の文姜が父(僖公)の命令で魯の桓公に嫁入りする前から関係があり泣く泣く別れた過去があり、今回の魯桓公と共に斉に行き襄公に会った事で・・・二人に「春」が来た。

世の中には様々な嗜好があります、私は「まぁ、人それぞれだから・・・」とは思いますが、実際に妹がいるせいか、「【妹ラブ】は妹のいない男の妄想にすぎん」と思っているので・・・この嗜好だけは・・・受け入れがたい・・・

さて、まさか実の兄妹で不倫など、想像にだにしていない魯の桓公は、この事実に大いに驚いただろう、凄い剣幕で襄公に抗議する。

襄公、反省するかと思いきや逆ギレした。
「彭生(ホウセイ)」と言うムキムキのマッチョメンに命令して魯の桓公を二つ折りにして殺してしまった。

ビックリしたのは魯国の臣民である。
まさか、親交を深めるはずの会合で主君が殺されてしまったのである。

急ぎ、魯桓公と文姜との間の子供(魯荘公)を即位させ、襄公に正式に抗議した。

そしたら襄公「俺知らないよ、殺ったのは彭生だよ、」と罪をマッチョメンに擦り付けマッチョメンを殺して魯国に謝罪した。

子供みたいな言い訳を・・・

しかし、魯国はそれでOKとするもんだから「魯桓公・・・嫌われていたんだなぁ・・・」としみじみ思う。

当然、文姜は魯国から縁切りされたので、斉国に残り襄公と我が世の春を謳歌した。

そんな無茶苦茶な襄公、この件で味を占めたのか同年似た事をする。

鄭国の君主(鄭荘公の子の一人)とその配下を「気に入らないから」と言う理由で殺してしまう。

一年で、国家の主席を2度「気分」で殺してしまう訳です・・・なんちゅう事を・・・

因みに、これも「気分」か知らないが、隣国の「紀国」を突然滅ぼしてしまう。
当時、国に攻め込む事はあっても、「滅ぼす」までやっちゃう事は基本的にタブーである。

そんな無茶苦茶な襄公の行為に怯えた弟が二人いた。
一人は、姜糾(キョウキュウ)、魯国へ亡命した。
もう一人は、姜小白(キョウショウハク)、キョ(草冠に呂)国へ亡命した。
二人とも、「気分」で殺されるかと心配したからです。

さて、「気分」で他人を害し続けた襄公も遂に「気分」で最後を迎える事となる。

先に、襄公は、連称(レンショウ)・管至父(カンシホ)と言う二人の臣下に辺境を期限付きで守備させていた。
この二人の臣下は期限の間、無事に辺境を守り通したので襄公に役目を交替する者を送って欲しいと依頼した所・・・

襄公「そんな約束したっけ?」と要求を突っぱねた。

連称「マジかよ・・・こいつ・・・このままだと俺ら家に帰れないじゃね?」

管至父「・・・やっちまうか!」

二人は、以前に襄公に迫害された「無知」を担ぎ上げ反乱を起こした。

襄公は、部屋の戸棚に隠れたが、残念な事に戸棚から足が丸見えで見事に見つかり殺されてしまいました。

襄公の死後、「無知」が斉公として即位したが・・・
彼も昔恨みを買っていた臣下に殺害されてしまった。

結局、斉の国は先に亡命していた二人の弟の内で「早く斉国に帰った者が即位するレース」が行われ、そのレースに見事勝利した姜小白が即位し【斉の桓公】となる。
そして斉の桓公は、姜糾に仕えていた逸材の【管仲】を臣下に加え斉国を強大な国に作り上げ春秋時代の最初の【覇者】として中華に君臨する。
斉の桓公と管仲については、横山光輝氏の「史記第1巻」を参照願います。

〜私なりに斉の襄公を考える〜
私の知っている人物の中で、このお方ほど「気持ち悪い」と感じた人物はいませんでした。
それは実際に妹がいるせいだとは思うのですが・・・
「人の嗜好はそれぞれですもんね・・・」と、この嗜好を受け入れられるものだろうか・・・それだけは多分無理な気がする。

同時に彼は「気分」で簡単に人を殺してしまう辺りも批難される事ではあるのですが、面白い事に「殺された側も問題のある方」であるのは少し面白い。
二つ折りにされた魯の桓公は、先に取り上げた魯の陰公を殺害した者であり、
鄭の方も先代を殺して即位した君主と臣下である。

狙った訳ではないんだろうが・・・ある意味、襄公は悪さを働いた人間に制裁を加えているみたいです。

そして「紀国」を滅ぼした件も、その分国が拡がって国力は上がっているだろうと思われるので、あとで即位した斉の桓公も「やりやすかった」だろうなぁ・・・とも思う。


尽くす相手に恵まれなかった良い人。魯の陰公(在位:前722-前712)中国4人目
2014/03/31

今回は、魯国の陰公を取り上げます。が、彼を取り上げるには、彼の300年ほど前の先祖の「周公旦」と言う偉人に少しだけ触れなければならないのです、「はよ、話すすめろや!」と思われるかもしれませんが、ご容赦願います。

その「周公旦(名前は姫旦)」は、殷を打倒した周の武王の優秀な弟であり、武王が周王朝を打ち立て諸侯の指導者になった際に魯国(現在の山東省曲阜県)に封じられたが、優秀すぎるが為に魯国には、息子の姫伯禽(キハクキン)を送り、自身は武王の補佐として朝廷に残った。

その武王が崩御し、彼の息子の成王が即位したが、成王がまだおちびちゃんであったので、この優秀すぎる周公旦は、成王が成人するまで代わりに政治を行った。
周公旦は、いまだに周に服さない残存勢力や反乱分子を討滅しつつ、王朝の礼法を整理し、周王朝の基礎を固めた。
その傍ら、自身が成王になりかわって王になろうとは考えず、成王が病気にかかった時には、こっそり天と先祖に「代わりに私を殺してくれ」と祈願したりする・・・
なんて良い人なのでしょう・・・
ただやっぱり、「周公旦は、成王様に成り代わって王になろうとしている」と成王に悪口言う輩も当然いるわけで・・・困ったもんです。
周公旦は、言い訳をすることなく楚国へ亡命する。
ただ、周公旦が尽くした成王は、これもまた素直な王様で周公旦が去った後、以前に彼が成王の病気になった際に、祈願した時の事を知り、涙を流して周公旦を呼び戻した。

さて、それからほぼ300年後・・・

その大偉人の周公旦の子孫の魯陰公が現れる。

魯陰公、名前は姫息姑(キソクコ)先代の魯の恵公の側室の子供です。
本来後を継ぐ正室の子供は、おちびちゃんだったので、代わりにその子が成人するまで代わりに政治をすることになる。

1.「摂政」として即位はせず、補佐に徹したが事実上の指導者なので「陰公」と即位した扱いされている。

2.おちびちゃんが成人したら位を譲る事を条件として一応即位はしている。

彼の政治上の立ち位置は上記の様に説が分かれているが、本質は先に書いた先祖の周公旦と同じように「幼君が成人するまで政治を行う」と言うことは変わらない。

個人的には説1の「摂政」として即位はせず日本の聖徳太子の様に政治を行ったじゃないかなぁ・・・と考えておりますが。

さてこの魯の陰公は、どうも外交が得意だったのか、平和主義者だったのか、そこんところは判りませんが諸侯があちこちと喧嘩しているのを尻目に、自国の周りにある諸侯と同盟関係を構築し続ける。

鄭国・宋国・戎(異民族)・紀国・斉国・・・と中原(黄河中流域:当時の先進地域)の諸侯の殆どと友好関係を築いた。
中に諸侯ではない戎もいる当たりがなんか面白く感じます。

そして彼が政治を主導した10年で戦争を行ったのは5回、(そのうち2回は部下が勝手に戦端を開いた。)
先に取り上げた州吁が年に2回大規模な戦争を行った事を考えると、少ないと言えないだろうか・・・

この外交と戦争において、陰公の人柄を現した逸話が拾えたので、紹介します。

【エピソード1】
ある時、魯国に臣従していた諸侯Aと諸侯Bが魯国を訪れたが、席次を争って収集がつかなくなった。
A「我が国は、周王朝と同じ一族を先祖としているから私が先である」
B「我が国は、周王朝ができる前から存在していた国である歴史が違う!だから我が国が先だ」

お互いの言い分を聞いた陰公はこう言った。
「今回の会合は、周王朝の一族の魯国で行われています、その場合、周の一族が席次を先にするのが習わしです。B国で会合が行われたら私が率先して席次を譲ります。Bさん今回は、譲って下さい。」

B国は、その言い分に納得し席次をA国に譲った。

【エピソード2】
ある時、同盟を結んでいた宋国が鄭国に攻撃された。
宋国は、魯国に使者Aを送り「もう、あかん、国が滅ぼされる・・・助けてくれ」って切実にお願いした。
陰公は、宋国のために急いで出陣の準備を行った。
少し時間をおいて宋国の使者Bが現れたので、陰公は「もう、やばいんか?」と使者Bに尋ねた。
使者B「いや、まだ全然余裕っすよ」と答えた。
さて使者Aが早く援軍が欲しくて嘘をついたのか、使者Bが強がって嘘をついたのか判らないが、どちらかが嘘を言ったのは確かで、陰公はぶち切れた。
陰公「先に宋国は国の危機と言い、改めて聞けば大したことないという、ならば私が心配する必要はありませんね」と言って出陣を取りやめた。

この2つの逸話より、とにかく陰公は
「主人風を吹かして無理やり言う事を聞かせるような事はしない人」
「嘘つきが嫌いな人」
・・・と悪いイメージは湧かない人の様に私は感じるがいかがでしょう。

さて、政治を代行して10年経ち、おちびちゃんだった腹違いの弟(名前は姫允)が政治を見ることができる年齢になってきたころ、陰公に公子揮(一族のキ)が陰公に、こう囁いた。

公子揮「陰公様、いっその事、允を殺して正式に魯の公になっちゃいましょうよ(そして俺に褒美くれ)」

陰公「私は、そろそろ隠居して政権を允様に返上し別宅に住むようにするよ、だからこの話は無かったことにね」

公子揮「(え・・・!まじかよ、俺が今言った事が、允に知られたら、俺殺されちゃうやん、)」

悩んだ公子揮、逆転の発想で起死回生を図る。

公子揮「允様、陰公があなたを殺して正式に公になろうと企んでます、先手を打った方が宜しいかと」

允「マジで!公子揮よ、陰公をぶっ殺せ!」

そして、允の代わりに魯国のかじ取りを務め、私欲もなく允に政権を返そうとしていた腹違いの兄は、皮肉な事に尽くした相手の鶴の一声で、殺害されてしまった。

そうして允は魯公に即位し後に「魯の桓公」と呼ばれるようになる。

〜私なりに魯の陰公を考える〜
この人を初めて知ったとき、私は「リトル周公旦だ」と先ず思った。
これは私の想像と言うか妄想にすぎませんが、陰公が諸侯と大いに争わず外交で友好関係を築いていったのは、きっと弟が成人して即位した時に、なにかあっても諸侯が弟を助けてくれるように準備した「弟の為の外交政策」であったのではないかと思った。
周公旦が成王の為に周の基盤を固めたように、陰公は後の桓公の為に周辺を固めたのだろう。
きっと陰公は偉大な先祖をかなり意識していたのだろう。
何故そんなに真心を尽くしたのに、非業の死を遂げる事になったのだろう。

公子揮が悪かったのか?

据え膳食わなかった陰公がバカだったのか?

私はこう思う。
ひとえに真心を注ぐ相手が注ぐに足りる人間ではなかったからだろうと思う。

周公旦が真心を注いだ成王は、周公旦を讒訴する人がいても疑いは持ってもすぐに殺そうとはしなかった。
さらに、周公旦の行いを知り涙を流して反省することができる王だった。

かたや桓公は、公子揮が讒訴した途端に陰公を殺害する事を決断してしまう上に、史書に乗る位だから陰公がどう思って自身の為に働いていたか後に知っただろうに、あろうや公子揮を殺す事もしない。

陰公は本当に運がなかったと思う。
ただひたすらこの方に対してはそう思う。

真心は、注いで価値のある人間とそうでない人間がいるんだなぁ、誰でも真心を注げば判ってもらえる、それは嘘だなぁ・・・と少しだけ人間に対して絶望を覚える。

と、偉そうに言ってみるが、私自身が魯の桓公のように「真心を注ぐ価値の無い人間」になっていないか・・・そう大いに心配する。

最後に、魯の桓公・・・
後に嫁を寝取られ、それに激怒して浮気相手に抗議して浮気相手に殺される事になる。
多分因果応報だと、ぼかぁ思いますよ、えぇ・・・

※中国の大偉人「孔子」は、この魯国の出身であります。いつか書ければ良いなと思います。

類は友を呼ぶ・・・衛の州吁(在位:前719年)中国3人目
2014/03/23

やっと3人目に漕ぎつけました。
今回、取り上げるのは前回取り上げた鄭国の荘公と同時期にかなり短期間であるが、強烈に生きた衛国の州吁(シュウク)という人物です。

先ず、衛国は現在の河南省の一部を領有した国であり、周に滅ぼされた殷の重要都市「朝歌」を国都として支配していた諸侯の一つです。
指導者は、周の武王の弟の康叔を始祖としたので、周・鄭とは同族であります。
なお、殷の重要都市を支配しているということから想像される通り、滅ぼされた殷国の遺民と周より移住した住民が共生していた国であります。

さて、その衛国に荘公と呼ばれた指導者がおり(鄭の荘公とは別人)その子供に、「完」と今回取り上げる「州吁」と言う兄弟がいました。

荘公は、後継者は「完」と決定していましたが、次男の州吁が軍事を好んだ事から、いずれ兄の片腕として、軍事に役立つ男となると睨んだのか、州吁を将軍として軍隊を率いさせました。

兄は政治、弟は軍事、兄弟で手を取り合い助け合う美しい光景を衛の荘公は、思い描いていたのでしょうか・・・

そんな、荘公の夢のプランを危惧する家臣がいた。
「石サク(石偏に昔)」という方であります。
彼は、荘公に「庶子が力を持ちすぎると乱が起きます、そんなに次男が可愛いなら、いっそのこと弟に後を継がせなさい」と諌めたが、荘公は聞かない。

石サクは、息子の石厚が州吁と仲良しだったのを怒り、交際を辞めるように言ったが、息子も言うことを聞かないので、荘公が死に、完(衛の桓公と呼ばれる)が即位すると、引退してしまった。

さて、いざ桓公が即位すると、州吁は傲慢になり贅沢をするようになった。
典型的な親の前でいい子ぶって、裏で悪さするタイプですね・・・
私も、親が出かけたのを見計らって、テレビゲームに興じたり・・・私の場合は、親に見破られていたみたいですが・・・

さて、弟のご乱行を兄としては見逃すわけにいかない桓公は、州吁を将軍の職を解き衛国から追放した。

ん・・・あれ?この州吁と言う男、誰かに似てるぞ・・・

さて、衛国を追放された州吁彷徨う事11年にして・・・運命の友に出会う。

「段」です。

あの、鄭の荘公の弟で、兄に対して謀反を起こしたが失敗して、鄭国から亡命した通称「共叔段(共国に逃げ込んだ弟の段という意味)」です。

多分出会ったのは、共国でなんだろうな・・・それはどうでもいいですね・・・

この二人、どうも意気投合したようで、二人で色々企み始める。

「類は友を呼ぶ」とはよく言ったものだと思います。

そして遂に州吁は共叔段と共に他国に散らばった衛国人(恐らく州吁寄りの立場にあって桓公に迫害された人々なのだろう)を集め衛国に攻め込み、兄の桓公をぶっ殺して衛国の指導者として即位を果たしました。

衛国においては、弟による簒奪劇がまんまと上手く行ってしまいました。

衛国の指導者の地位を勝ち取った州吁は、先ず大事なお友達というか可愛い舎弟だろうか・・・共叔段を鄭国の指導者に就かせるべく鄭国に戦争を仕掛ける。

その際に鄭国の隣国の宋国・陳国・蔡国と連合するのですが、その時の口実が少々面白い。

「宋公(殤公)、過日に鄭国に亡命しました公子馮(当時の宋殤公の従兄弟、後の宋荘公)を殺したいですか?殺したいなら衛国は陳国・蔡国と共にお手伝いしますよ」と宋国をそそのかした。

本当に、なんだかなぁ・・・って感じます。

その際は、鄭国の首都の東門にせまったが5日で撤退することとなり目的は果たせなかった。

また同年、州吁は改めて諸侯と鄭を攻撃し野戦で鄭国を撃破し穀物を奪い取り撤退した。

結局、州吁は共叔段を鄭国に送り込む事に失敗し、公の目的としていた公子馮も殺すことも出来ず、食糧を奪い取ることしかできなかった・・・

衛国の臣民は、年に2度も大掛かりな戦争をしながら、成果を収めることの出来なかった州吁を大いに憎んだそうです。

さて、衛国の臣民の支持率がかなり下がってしまった州吁は、いかにして支持率をあげようか謀臣の石厚と相談するようになる。

しかし石厚もどうしたらいいか分からず、自分より頭の良いお父さんに聞いてみようと、隠居した父親の石サクを訪ねて話を聞いてみると、流石、お父さんは澱みなく息子に策を与える。

石サク「周王に挨拶に行って、周王に気に入られれば臣民も州吁様を指導者として認めるだろう」

石厚「そうか、さすが父上!(周王と鄭国は仲が悪くなりつつあるから見込みありそう)でも、いきなり行っても会ってはもらえなさそうですが・・・」

石サク「バカだなお前、衛国と同盟している陳国は周王様と仲が良いから、陳国に頼んで仲立ちしてもらえばいいだろ」

石厚「さすが父上!!!早速、州吁様と一緒に陳国へ訪問し頼んでみます!!」

そんな流れで、州吁と石厚は、陳国へ訪問するが・・・実は、それがいけなかった・・・石厚は過日、父親に言われた忠告を思い出すべきだった・・・

石サク、陳国に使者を送り・・・
「これから、州吁と我が息子がお邪魔します、奴らは先君(衛桓公)を殺したけしからん奴です、貴国にて殺して下さい。」
と言った・・・

うぅぅむ・・・

結局、陳国は州吁と石厚を殺さずに捕縛し衛国に連絡した。
衛国は、処刑人を陳国に送り、州吁を衛国へ護送の上処刑し、石厚は陳国にて処刑した。

州吁、即位して1年も経たずに・・・

石サクは、他国に住んでいた衛桓公の同母弟の「晋」を衛国に呼び戻し即位させた。

世間は、石サクを「大義、親を滅す」と評価した。

晋は後に衛の宣公と呼ばれる。
余談ですが、この宣公も後にろくな衛国の君主にはなれなかった・・・実に残念です。

〜私なりに州吁を考える〜
州吁が衛国の君主として即位し鄭国と戦端を開いた際に、魯国の君主は部下に「州吁は指導者として成功するだろうか?」と尋ね、部下はこう答えた。
「徳をもって民を安定させるとは聞きますが、乱をもって民を安定させるとは聞いたことがありません。州吁は武事を好み平気で残忍な事をします。とても成功はしません」

まさに仰る通りであります・・・とへそ曲がりな私は言いません。

先ず、州吁が共叔段と似た境遇にありながら共叔段は簒奪に失敗したが何故州吁は上手く行ったのか?
私は、州吁寄りの衛国人亡命者が桓公政権を転覆させるほど存在したことに加え殺された桓公自身が特に悪さをした人間でないことから、州吁自身、共叔段の様に「悪い弟、いやな奴」と認知されていなかった。
むしろ、軍事に精通している頼りになる男として認知されていたのではないかと思う。

そして、鄭国への戦争も仮に成功していたらどうであったろう。
仲良しの共叔段が鄭国の君主に即位したら、強力な同盟国が一つ増える事になり、宋国の公子馮を殺せたら、宋国と衛国とも強力な同盟国の一つになっただろう。
これが成功すると、衛・鄭・宋に元々の同盟国の陳国・蔡国を加えた、強力な連合国家群が出来上がる。
きっと、周辺の大国の斉や楚や晋にも対等に渡りあえたかもしれない・・・それは言い過ぎかも・・・

短期間にそんな目論見が成功したなら・・・
州吁は、稀代の名君と評価されたのではなかろうか?

彼は「ハイリスクハイリターンの博打に負けた」そんな指導者ではなかろうかと思う。故に州吁個人がバカだの残忍だのくそ野郎だの・・・と評価されるのは・・・ちょっと・・・

歴史に「IF」は存在はしないが、ついついそんな妄想を駆り立てる存在ではないだろうかと、ふと思います。

負けたのは事実で、衛国に負担だけ掛ける結果を招いてしまったのは事実では有るのだが・・・
衛国人に殺され、死後「諡号」すら貰えない。(つまり、「衛国は州吁を君主として認定しません、思い出したくもありません」って言われたようなものでしょう。)
そこまで存在を否定する衛国のあり方に私は疑問を感じる。
自分らで立てた君主でしょうに・・・
しかし、それも臣民の卑怯さと同時に生き残っていく逞しさでもあるのかもしれません。

実際に「衛国」は中級国家から弱小国家に転がり落ちた後も延々と生き延び始皇帝が中国を統一した後もひっそりと生き延びているから、また面白いです。

どうでもいい余談ですが、「類友」の共叔段は、最後どうなったか全く判りません。
というより、州吁の鄭攻撃以降、全く出てこないのです。
1.鄭攻撃中に戦死した
2.州吁の失敗に失望して衛国から出奔し各国を彷徨った
3.州吁・石厚と共に実は殺されていた

そんな妄想は出来ますが、結局のところ、奴がどこでどのように死んだかは判らないのです。

ただ、共叔段のお孫さんの時に「罪を赦されて」お孫さんは鄭国に居住する事になる。

お母さんなんか・・・!!鄭の荘公(在位:前743-前701)中国2人目
2014/03/17

周の幽王に続いて、今回取り上げるのは、鄭の荘公です。
鄭国は、現在の河南省新鄭市に基盤をもった、諸侯のうちの一つの国です。
荘公は、その鄭国の三代目であります。
連邦国家である周王朝を支える諸侯の中では実に歴史の浅い諸侯です。
ですので、荘公に至るまで、2代ほども紹介できるから都合も良いのです(笑)
荘公に入る前に前菜として先の2代も簡単に紹介したい、むしろこの2代を踏まえて鄭の荘公を書きたい・・・と私は願うわけです。

鄭国初代(桓公)
名前は、姫友
周の幽王のお爺ちゃんの末の子供で、幽王のお父さんの在位期間に領土を与えられ、諸侯の一人となる。
幽王の叔父さんとして、周の政治にも参画し善政を敷いたが、幽王の女狂いに絶望し、自国の臣民を移民させ申候の反乱と言う凶事に巻き込まれないようにした後、
自身は幽王に最後まで尽くし幽王と共に戦死した。
※忠義だとか愛国だとか自身の気持ちだけを優先し自分だけかっこよく死にたがらずに可能な限り、ちゃんと、自分が死んでも困る人が出ないようにしてから死ぬのが肝要だなぁ・・・って私は思います。

鄭国2代目(武公)
名前は、姫屈突
桓公の子、父の死後、残された臣民を隣国の2国に預け
周の平王に仕え、混乱した周を安定させ、申候の娘を妻とした。
周が安定したので帰国し先に臣民を預けた2国に臣民を返すよう頼んだが断られたので、2国を不義の輩として成敗し元々あった鄭国に2国を加え新鄭に都をおく。
※父親の仇である周の平王・申候と昵懇になるその心は・・・と気にはなる。きっと悔しかったんじゃないかなぁ・・・とは思いますが。どうでしょう?
さて、この「新鄭」って土地、地図で確認してみたら中々面白い位置にある。
新鄭を中心に
北は邯鄲:後の趙国の都となる。
東は開封:後の北宋の都となる。
南は許昌:後に曹操が仮の都として漢の献帝を迎え入れる。
西は洛陽:当時は洛邑。周の都であり後にも数々の王朝が都に選定した。三国志だと董卓に焼かれてましたね・・・

とりあえず、新鄭って土地は、交通の要所だったのかな?ってふと思いますが・・・それは、またの機会に考えてみます。

前置きが長くなりすぎた感がありますが・・・本題の鄭の荘公には外せない話だったと言うか・・・一緒に書きたかった方々でもありますので、そこら辺は、ご容赦願います。

さて本題の鄭の荘公です。
鄭の荘公
名前:姫寤生(キゴセイ)
武公と申候の娘の間の子。
「寤生」とは、「逆さまに生まれた」って意味なんだそうです。なんだその名前の付け方って気にはなるが・・・それは現在の感覚ならではなので、あまり突っ込まないようにする。
名前の通り足から生まれたので、母親の申后は、相当しんどかったようです。「まぁ!生まれてホヤホヤでいきなり母親に難儀をかけるなんて!親不孝な子!!」って言ったかどうかは定かではないが、申后は、「逆子」を大変嫌った。
で、次に生まれた子(名前は段)は、ちゃんと頭から生まれたので、申后は弟の段を可愛がり、しまいには武公に「あなたぁ・・・後継ぎは、段が良いわよぉ・・・」なんてねっとりとおねだりしたか知らないが、
可愛い段坊ちゃんを後継者にするよう色々吹き込んだとのこと。
だが、武公は申后のお願いを無視し、寤生に後継者の地位を与えた。
さて、武公がお亡くなりになり、逆子と母に忌み嫌われた寤生が即位する。(これからは荘公と表記する)

さて、荘公が即位するや母親の申后は、弟の段に城をくれ領地くれだの言い募り始めた。
まぁ、面の皮厚い母親だこと・・・
普通なら「うるせぇ!黙ってろ!!」とか一喝してもおかしくないかと私は思うが、荘公は違った。

母親の言う通りに城でも領地でも弟に与えた。

部下の祭仲をはじめ数々の臣下が、「いづれ謀反につながる」と諌めたが、
「母上がお望みなのだ・・・害になっても仕方ない・・・」とか「悪事を重ねればいづれ自滅する」とか
言い訳を続ける荘公・・・なんともまぁ・・・頼りない。
そして、部下たちが案じた通り、申后・段はだんだんと増長し、遂に謀反を起こす。
こりゃぁ荘公そのままジエンドかと思うがそうはならなかった。
「荘公様はあんなに尽くしていたのに・・・けしからん母親と弟だ!!」と感じた国民が多かったのでしょう、
謀反を事前に伝える者、荘公が出陣するとたちまち段より荘公側に寝返るも者、荘公に味方するものが多く現れ、段はけちょんけちょんに敗北し鄭国から他国へ亡命することになる。

そして荘公は捕えた母親に「黄泉路に行くまで母上にはお会いしません」と誓いを立て幽閉した。
これにて、鄭の反乱分子は一層され、鄭国は荘公の元まとまる事になる。

さて、荘公お家騒動を収束させた後は、春秋左氏伝を辿ると中々たくましい。

遂に・・・!!主筋にあたるが・・・爺ちゃんの事実上の仇・・・周王に喧嘩を売る。
周の平王・その子桓王が、鄭国を疎み始めたのもあっただろうが、私はやっぱり、爺ちゃんが殺された事がやっぱりあったんだろうなと思っちゃうわけです。
父ちゃんも、本当の仇を討つ事は出来ず、かわりに周の平王・申候に合力した異民族の犬戎を討伐する事で憂さを晴らしてはいる・・・
てか、申候と平王・・・自分たちで犬戎誘っておいて、幽王及び鄭の桓公殺した後で、「悪いのは犬戎の奴らだ、みんな助けて!」
だなんてほざいて諸侯に犬戎を討たせているあたりかなり悪辣だ。

それは置いといて、荘公は平王の後を継いだ周の桓王に嫌がらせを始める。

先ず、周の穀物を勝手に刈り取るのである。
その後で、ふてぶてしく周桓王に謁見する。
当然、周王は頭に来てるから荘公をぞんざいに扱う。
今度は荘公、それを理由に周王に挨拶しに来なくなる。
しまいには、周王より祭祀ように預けられていた土地を隣国の魯国の土地と勝手に交換してしまう。
明らかに「お前に命じられた祭祀なんか知ったことか、俺は実りのあるこの土地の方がいいのさ」って言ったのに等しい。

周の桓王は、遂にぶち切れる。

諸侯に呼びかけ鄭国に攻め込んみました。
鄭国は、朝敵とされ大軍に攻め込まれると言うかなり危険な状態になった・・・

しかし、諸侯の軍勢を鄭国一国の軍にて、圧勝してしまうのである。
しまいには、周王も矢が肩に当たり負傷してしまう。

さて、連合軍を打ち破った鄭国軍その強さはどこにあったのか・・・興味深いが、正直判りません。
士気と団結力は、鄭の桓公の悲劇・弟段の反乱鎮圧を鑑みれば連合軍を圧倒していたのだろうとは思いますが・・・
春秋左氏伝の訳本を見ると、作戦が上手くいったと書かれているが・・・(弱い部隊を優先的に潰走させ連合軍に混乱を与えてから全軍突撃した)

さて、連合軍を潰走させ周王を負傷させた鄭軍「これから追撃だ」っといきりたったが、荘公は追撃を止めて
周王に使者を送り「やりすぎちゃった・・・ごめんね、怪我大丈夫?」ってな事を言ったかどうか別として、周王に謝った。

この事により、周王は鄭国を朝敵から外し、攻める事は無くなった。
そして、刃を交える事になったとしても周王朝を大事に思っているアピールで、隣国からは一目置かれる事になる。

仇を討ちつつやりすぎない所で良い子に変貌し周囲の関心を買うという心憎い事をすのである。
そうして、諸侯に「鄭国ここにあり!」と知らしめた。

ただ実に残念な事に、鄭の荘公の死後・・・鄭国は後継者に恵まれず内紛が起きる事となり、交通の要所を抑えたそれなりにたくましい鄭国は、交通の要所がある為に各国から狙われ続ける弱諸国に成り下がってしまい、桓公・武公・荘公のような名君にも恵まれなくなってしまう・・・

ついでの話ですが、幽閉された母親と荘公どうなったか・・・先に荘公は「黄泉路に行くまで(死ぬまで)あいませ〜ん」とか言っていたのだが、実は母親を幽閉して1年ほどで再会しているのです。
というのも・・・
母親を幽閉した荘公、暫くしてかなり後悔しはじめる。
そんな荘公の前に客人が現れ、荘公と食事をしはじめる。
そしたらその客人「母親にも食べさせてやりたいので、もって帰ってもいいですか?」と聞く。
そしたら荘公「お前には食事をもって帰れる母親がいるのか羨ましい・・・」
客人「会えば宜しい」
荘公「黄泉路に行くまで会わんって誓ったし・・・」
客人「黄泉路(地下水の湧く深さ)までを掘り下げて会えば宜しい、それなら嘘ついた事にならないでしょ、黄泉路まで行ったんだから」
荘公「そうか!!お前は頭が良いなぁ!」

そういったまるで一休さんが出てきそうなオチで、荘公は母親に会い、そこでやっと母親と仲良くなれたのだそうです。目出度し×2

〜私なりに鄭の荘公を考える〜
鄭の荘公の母親と弟のくだりを評して
「荘公は、可哀想な良い子ちゃんを演じて、周囲を騙し母親と弟の評判を落とし、自分の味方を増やした嫌な奴だ!」と評する方も居る。
確かに、後に周王と喧嘩するくだりも考慮すると、荘公は周囲に自分がどのように映り、どの様に振る舞ったら周囲の関心を得られるか、良く分かって実行していたように思える。
ただ、私はもう少し荘公に同情的に考える。
母親と弟が欲しがる者を与えていた頃の荘公は、頭では、上記の様に考えていたりもしただろうが、
本能的には、やはり「愛されたい症候群」が発病していたのではないかと思う。
とりあえず、母親に弟の様に愛されたいけど、どうやったら愛されるか分からなくて、欲しがるモノを与え続けるしか思いつかない感じ・・・

本当に可哀想だったんだと、私は思います。

そして、母親との再会を助言した客人の言う通りに、別に何か高価なモノを持った訳でもなくただ素直に会いに行って会いたい気持ちを伝えたら仲直り出来た。

その過程を経て荘公は、
「人が自分をどう見るか」「どう振る舞ったら人にどう思われるか」と言う、世間からの関心を操るスキルを磨いていったのじゃないかなぁ・・・て勝手に推測します。

つまる所、申后は母親として最低でありながら、知らずの内に憎んだ子供を、立派な鄭国の君主に育て上げたとも言えなくはないだろうか。

そして「人の関心を得る為にどう振る舞ったたら良いか」という行動原理は、今後出てくる「覇者」という存在の基本的な行動方針となる事を踏まえれば、鄭の荘公は「覇者の先駆け」とも言えるのではないかと、かなり好意的に私は思ったりしてしまう。

余談ですが、因みに母親に憎まれて立派な指導者になった人物を日本で考えてみると織田信長・伊達政宗が浮かびます・・・両人ともちょっと性格ねじれていると私は思う・・・

子育てに悩んでるお母さん!
優れた子供を育てるなら敢えて母親の愛に飢えさせるのも一つの方法化もしれませんよ、
もれなく性格はねじ曲がることは必至ですが・・・(笑)

愛されたい男性の皆さん、
とりあえず、「貢ぐくん」やっても意味ないですよ。
そういう私も、実は私も愛されたい男性の一人だったり・・・
「うわぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁぁん!!」

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